洋裁学校の隆盛

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戦後の水海道町には洋裁を主とする専門学校が相ついで誕生した。既に戦前に洋裁学校から私立城北女学校として普通学校に発展したものもあったが、そのほかにも裁縫学校が存在した。飯野悦子(福井師範本科、共立女子専門学校、日本文華洋裁学院卒)が昭和一三年、水海道駅前に開校した洋裁学院は戦後宝町に移転し、昭和二三年公認と同時に校名も水海道女子高等家政学校と変更された。入学資格としては新制中学卒及び女子高校卒となっており、実技のほか、自由選択科目として書道、生花、料理、育児衛生、編物、社会科、英語、ミシン等の指導も行い、内容は女子教育全般に及んだ。
 アロウ洋裁学院は肆矢圭子(名古屋洋裁女学校高師科卒、文化服装学院講師等)が橋本町御城近くに建設した二階建て九一坪の学校で、洋裁、服飾手芸を主とし、選択科目として茶道、生花、料理等もあり、編物、和裁にも手を拡げていった。また在京の著名な女性文化人を講師に招き、政治問題から恋愛、結婚問題の講演会を開催するなど女子教育の向上に力を尽した。
 サイトー洋裁学院と若葉洋裁服飾高等学院は、いずれも研究所として出発したもので、前者は守谷町出身の味の素会社課長斎藤芳郎の夫人みさを(直方高女、東京滝ノ川ラモード洋裁学院デザイン科卒)が昭和二〇年豊岡村に疎開し、渕頭町に移って開校したもの、後者は草間良子(台北第一高女、トレビアンドレスメーカースクール卒)が、水海道町新町日就堂内で開いた第一回洋裁展覧会が発展して研究所となり、その後洋裁学院になったものであった。
 このほか五木田和子(共立女子専門学校卒)の主催する白羊ドレス学院があり、洋裁学校の隆盛は目覚ましいものであった。
 これには戦後、地方都市を中心として、衣服が和服から洋服へと大きく変化していった生活文化状況が反映されていると同時に、高校へは行かないまでも、花嫁修行として腕に技術をつけようとする若い女性たちの地位向上への願いも含まれていたのであろう。また水海道町には、昭和一〇年以来、小林タケによる県下で唯一の編物専門学校があり、戦後は公認の小林編物研究所と衣がえして大きく発展していた。定員は五〇人で、六か月で修了する本科と一年間の師範科が設けられ、多くの卒業生を輩出していった。
 
第64表 水海道町内洋裁学校一覧(昭和24年頃)
名   称場 所沿 革 創 立院 長 等
水海道女子高等家政学校宝町昭和13年飯野洋裁学院として駅前に創立。昭和21年宝町に移転。昭和23年2月公認・改称飯野悦子,洋裁専門部,和裁専門部
アロウ洋裁学院橋本町昭和22年3月創立。23年6月公認肆矢圭子,本科,速成科,師範科,
サイトー洋裁学園渕頭町昭和22年,サイトー洋裁研究所として生徒募集夜間部
斎藤みさを,本科,
若葉洋裁服飾高等学院新町(本町)昭和22年若葉洋裁専門研究所として創立。11月から生徒募集速成科,研究科
草間良子,本科,服飾手芸科
白羊ドレス学院渕頭町昭和9年五木田八重子により創立五木田和子
『文化茨城』(縮刷版)より作成