文化諸運動

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戦後の諸改革が着手されはじめた昭和二二年一月、水海道に『文化茨城』が創刊された。戦前『いはらき』新聞の支局員から風見章代議士の秘書に転身した志富靱負が主幹となって発刊したもので、当初は月刊、二五年からは月二回のタブロイド版を発行した。紙面には、政治問題を初め、論説、時事ニュース、町村内の動き、文化、スポーツ等々、地域の生々しい動きが盛りこまれていた。
 特に「文化」と名乗っただけあって、戦前から、あるいは戦後〝雨後の筍〟のように結成された各地の文化諸団体の動きが克明に記録、報道された。
 たとえばその一つに、戦後追放処分を受け、水海道町内に隠棲していた風見章を中心として、医師松田孟吉、元三井銀行重役青木萃一等が参集した「漫談会」(のち清和会)があった。その一端として、昭和二二年六月八日に南茨会館で開催された会の様子を紹介しよう。「……出席者は何れも弁当持参渋茶をすすりながら風見さんの飴つくり秘訣、青木さんのインフレ退治私案、杉田さんの栄養漫談、町長寺門健夫さんの保健所誘致自慢話等々何れも肩のこらない、しかも有益な漫談が続出、時の移るのも忘れてトップリ日が暮れてから解散した……」。
 時代は食糧危機やインフレ、停電騒ぎ、そして農地改革、農民運動、教育改革等々、多くの人びとが今日をどう生きるかについて懸命であった時だけに、ある意味ではこのような余裕のもとに、悠々と世相を論じていたサロンが存在したことは、解放された時代の一端を示していた。
 また宗教、特にキリスト教会の活動が非常に活発で、賀川豊彦を迎えての講演会や、新生読書会、イエスの子供会、日本キリスト教団水海道教会主催クリスマス祝会等々が開催された。これらは明治期からキリスト教の普及が盛んであった当地方の伝統を当時にまで受けつぐものであった。
 文化団体としては二水会、俳句のせせらぎ会、短歌の八光会などの団体が引き続き活躍した。また戦前から長野県で盛んに行われ、戦後も主として都市のインテリと農村青年の交流の場として展開された自由大学運動があった。茨城県においては新治郡恋瀬村の農政評論家桜井武雄の指導に開かれ、地方青年の啓蒙に力を尽くした。水海道町においては大楽寺住職長谷川良全がこの構想に共鳴し、昭和二四年一月からその準備にとりかかり、同年六月一日開講した。幼稚園舎を会場として毎週水、土の夜七時から九時半まで、哲学、社会学、美学、国文、生物、心理学などが予定された。そして二高木村信之教諭司会の「自由大学の在り方」座談会も開かれることとなり、新しい試みであったということができよう。翌二五年には正月の自由大学が計画されたが、その日程表を掲げると第六五表のとおりである。
 
第65表 自由大学のカリキュラム
日 付「演  題」  講  師
○7日新年名刺交換会
○10日「短歌と写生」鹿児島寿蔵
○14日「明治以後の文芸評論」岡野博
「進化論」富山俊琳
○17日「聖書より見た日本の将来」青木萃一
「歴史の中にはたらくもの」荒川久寿男
○21日「風土伝説」石島徳一
「性と発生」木村信之
○24日「欧米文芸評論」松丸角治
○28日「日本笑婦の変遷」高梨輝憲
「歴史の中にはたらくもの」荒川久寿男
○31日「自然の実相」倉田明進


 
 同年には二月にも「源氏物語抄」「キリスト教々学」「英詩自由訳」「パリ四方山話」「月をさすゆび」「新憲法に就いて」などの講義が加わっている。昭和二六年になると二月二六日、二水会、八光会後援で、NHK解説委員館野守男を招いて時局講演会「世界の状勢と日本の動向」を開催した。昭和二七年には、大楽寺自由大学で第一回成人学校を開設し、二月五日から一五日にかけて風見章、富村登、富山弁護士等が講師となった。さらに翌二八年三月には文学博士高桑純夫の「戦争と平和」と題する講演が二回にわたり行われている。