町村財政の窮乏化

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昭和二八年(一九五三)九月の町村合併促進法の公布によって、町村合併は国の重要施策として、強力に推進されることになるが、それに至る過程は既に昭和二五年ごろから準備されていた。国際情勢の変化に伴う占領政策の転換、ドッジ=ラインによる経済九原則、デフレ政策がとられたことは、新制中学校の校舎建設や、自治体警察廃止による平衡交付金の削減などの問題を抱え、町村財政を著しく圧迫した。
 水海道町においても昭和二五年八月、町の財政白書を公表したが、同年の年間歳入予算が一八一八万円余であったのに対して、累年の町税滞納額は三三十万円余に達し、滞納整理が町政の大きな課題となった。また地方税改正に伴い町村民税が増額となり、水海道町では約二〇〇万円から三倍の六〇〇万円となることが予想されるなど、この面でも財政の危機は進行していた(実際には七八七万円と約四倍にふくれ上った)。
 昭和二六年四月には、戦後二回目の統一地方選挙が実施され、県会議員、町村長、町村議員の改選が行われた。水海道地方では三妻村長であった染谷秋之助が結城郡から県会議員に立候補して当選した(四名中三位)が、町村長選挙では、無投票で再選されたのは五箇村(長岡健一郎)一村で、選挙の行われなかった(時期のズレ)大生、豊岡を除き、各地で激しい選挙がたたかわれた。
 水海道町では現職のほかに三人が立候補し、町会議員を僅か半年で辞任していた材木商の須田誠市が、県会議員候補者の声もあった青木皓を、僅かな票差で破り、町長に就任した。また菅原村では現職の村長と村会議長が、村を二分する戦いを展開し、九四八票の同点で、抽籤で決定するという珍しい事態も生じた。このような状況のなかで、新しく選出された町村長にとって、最大の課題は財政整理であった。水海道町では同年六月には、既に滞納額が六五〇万円にも達しており、二四年、二五年の滞納額に加えて、二六年の滞納額も予想され、町では役場吏員が連日総出で整理にあたり、納税組合を新増設し、納税成績の向上に努めた。
 そして昭和二七年春の予算編成期には、町税滞納額が一〇〇〇万円に上り、学校、各委員会、消防団などからの要求に対し、半分の二〇〇〇万円程に切りつめざるをえなかった。各村における予算規模をみると、三妻村七〇〇万円、大生村五六〇万円、菅原村五〇〇万円、大花羽村四〇〇万円、豊岡村六〇〇万円といった有様で、いずれも学校建設、村道修理等を抱える一方、滞納額や人件費の増額等により、「四苦八苦」の状態である、とされた(『文化茨城』八八号、昭和二七年三月一日)。水海道町では翌年の予算編成期にも同じ問題に直面し、戸別訪問の強化や宣伝カーによる納税義務の宣伝、そして場合によっては差押処分を行うなど懸命に対処した。
 こうした中で、昭和二八年三月、結城郡地方自治確立討論会が開かれ(審査長小林伝三妻村長)、憲法九条問題や生活改善問題と並んで、町村合併の必要性が論じられた。さらに同年六月には各地方事務所の肝入りで、町村合併問題につき各町村が討議するなど、合併の検討に本腰を入れ始めていた。