町村合併の構想

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結城地方事務所は早くも昭和二七年九月、新しい町村合併の組合せを公表したが、それは人口八〇〇〇人から一万人を基準とした町や村を作るというものであった。しかし翌年六月に再び地方事務所がまとめた案では、郡内三町二四村を、三町四村の計七か町村に統合する案で、これに対しても各町村部会による五町村案が対置され、合併案はすぐにはまとまらなかった。そのため結城、石下、水海道の三地区に分けた合併協議会が開催されたり、九月には各町村長、各町村議会議長、地方事務所各課長をもって、結城郡町村合併協議会が結成されるなど、町村合併に向けて、全力が傾けられた。地方事務所の七町村案では、水海道市域は、菅原・大花羽・豊岡三村合併(人口一万〇五七八人)と、三妻・五箇・大生・水海道および真瀬村(現谷田部町)の内川西地区の一町三か村合併(人口二万二一七四人)の一町一村案であり、町村部会の五町村案では、水海道町外六か村の合併構想であった。
 水海道町では同年一二月町議会協議会を開催し、結城郡町村合併協議会のうち隣接六か村の村長及び正副議長の合同の会議を呼びかけることを決定した。町議会協議会で検討された案には次の三通りがあり、当時の町の立場を示していた。
 
 (一) 大生・豊岡の隣接二村を合併の対象とする。
 (二) 昔から一町六か村と呼ばれている伝統的つながりを生かした合併。
 (三) 一町六か村の外に筑波郡小絹、十和、北相馬郡坂手村にも働きかける大合併案。
 
 町のリードで消極的、積極的、より積極的な三案が示されたが三番目の案は他郡に跨っていることから問題にならず、積極案としての一町六か村がまとまれば理想的だが、これも相手のあることで、仲々難しい、というのが、当時の判断であった。町として考えられたもう一つの問題は市制施行との関連であった。当時市制を施行するに際してとられた基準は、人口三万人以上であり、一町六か村合併はその条件を満たしていた。その場合には当然市街地を形成している水海道町の指導型合併ということになり、隣接の大生、豊岡両村と、比較的離れている諸村とでは、反応が異なっていた。また各村においても、いずれにしても合併は不可避であるとの認識はあったにせよ、大花羽村と菅原村のように、組合立中学をスタートさせているところもあり互いの意向を尊重しなくてはならない村もあった。また西南隣りに位置する北相馬郡の坂手村は、水海道町とつながりが深く、いずれの場合でも水海道町との合併を志向していた。
 町内には「市制」につながる合併を待望する声が強かったが、実際には他村との調整がつかず、大合併構想=市制施行は一時望み薄となっていた。そして「漸進主義」とする大生村、坂手村の二村に、十和村川又地区及び小絹村の一部が水海道に合併する案なども噂に上った。
 しかし昭和二九年三月には結城町を中心とした一町四か村合併による結城市制施行が実現し、水海道においても再び市制への動きが強まり、四月二二日、結城郡町村合併研究会主催の、水海道地区合併の促進協議会が開催され、一町六か村合併案が再び燃え上った。これをリードしたのは結城地方事務所長の落合庄次、県会議員染谷秋之助らで、会長に水海道町長が、副会長に染谷県議、斎藤大花羽村長が推され、合併計画が急速に進んだ。そして翌五月一二日には、水海道小学校講堂において、一町六か村議員大会が開かれ、ほぼ意見の一致をみるに至った。合併までのプロセスとしては、各町村別に、議会で合併案を決議した上、六月三〇日を期して、市制施行に踏み切ろうというものであった。この間坂手村においても同様の手続きがとられ、実際には七月一〇日から一町七か村合併による水海道市が誕生したのである。
 市の運営にあたる市長等の役職は、翌昭和三〇年の統一地方選挙まで選挙を行わずに、任期を残していた水海道町長須田誠市が初代市長となり、各村長は、各旧役場に置かれた支所長となった。また町村会議員はそのまま市会議員となり、一〇〇名を超す市会議員がこれも翌年の選挙まで持ち越された。市では七月一五、一六の両日、盛大な市制記念祝典を挙行し、市民意識の昻揚が図られた。水海道市の呼び方についても種々議論がなされたが、郷土史家富村登の長年の研究と考証により、「みつかいどう」ということで大方の異論はなかった。
 

134名の議員による合併直後の市議会(現武道館)