翌三〇年一月及び三月には筑波郡に属する近隣の諸町村がおおむね谷田部町と谷和原村に町村合併を成立させる中で、小貝川の西側に位置した旧真瀬村の一部地区(現東町、五二世帯、三二五人)と、旧十和村川又地区(四八世帯、二八三人)が水海道市に編入された。
昭和三〇年四月には市長及び市会議員の改選が行われ、市長には現職の須田誠市が一万六三五票を獲得し、元水海道町町長等を勤めた神林鎮男に四千票余の差をつけて再選された。市会議員三〇人の選出は旧町村を選挙区として選出されたが、一三〇名の前議員の中から一八名が当選した。また旧村長経験者二名(山本和平、菅沼二)も当選したほか、豊岡からは婦人の飯田花子がトップ当選し話題となった。
その年七月には市役所職員の大幅な異動が発表され、旧村長で合併後は各支所長を勤めていた者が、支所長廃止に伴い、総務課長(長岡健一郎)、税務課長(小林伝)、建設課長(山崎淳)、経済課長(斉藤和市)、社会福祉事務所長(古谷長一郎)等の重要ポストに就いた。
市制施行後の水海道にとって最大の課題は財政の健全化であった。昭和三〇年二月の「水海道市財政事務報告」をみると、昭和二九年度歳入予算が約八九九〇万円であったのに対し各旧村からの持ち込み滞納額(市民税と固定資産税が大部分)が一二九五万円となっていた。
市では納税完遂運動を起こし、滞納の解消に懸命になったが、期待したような成果が上がらず当年納税額の完納も思うようではなかった。市長に再選された須田誠市は『市報』(一一号)に載せた就任のあいさつの中で、「財政確立を念頭にして、支出の無駄を極力はぶき、行政の簡素化を図り、教育文化の向上、土木、衛生、消防、その他各種事業の充実、振興をはかり都市計画の推進をいたしたく存じます」と述べたが、赤字財政に悩まされていては、充分な施策も打ち出せなかった。
市ではその年の暮ごろから持込み滞納一掃に乗り出し、市長は翌三一年の年頭あいさつの中で、昭和三一年度予算において赤字克服の実をあげたいと言明した。そして七月の臨時市議会で自主財政再建計画の樹立をはかるため、昭和三二年中に赤字を解消する方策を検討した。そして発表された計画は第六六表の様な二か年計画であった。
第66表 持込赤字の償還計画 |
記 事 | 持込赤字額 | 償 還 額 | 残 |
29年7月10日現在旧町村より | 15,274,406 | 15,274,460 | |
29年度中償還額 | 724,406 | 14,550,000 | |
財政調整債による償還分 | 5,000,000 | 9,550,000 | |
31年度中償還予定額 | 6,550,000 | 3,000,000 | |
32年度中償還予定額 | 3,000,000 | 0 | |
財政調整債 昭和31年1月に借入れ昭和34年4月までに毎月返す事になっており昭和32年度末には返す金が2,275,000円残りますのでこれも昭和32年度末に繰上げて返しこの持込赤字を完済する。 |
註) | 31年中に予定償還額が達成されたので32年度には持ちこされなかった。 |
(『水海道市広報』第20号) |
この結果昭和三二年の正月のあいさつの中で須田市長は、「皆様の多大なる御協力を得まして昨一年間をもち無事、赤字の解消を見ることができまして御同慶に堪えないところであります」と、健全財政への転換を発表した。
昭和三二年度からは新市建設の基盤づくりに着手し、①教育施設の改善及び環境の整備、②国保の全市施行、③消防施設の充実、④道路の整備、保全、⑤産業の振興、⑥火葬場の改築などを重点施策に掲げた。そして一一月には市制施行三周年記念の産業文化祭を盛大に開催し、翌年一月には市役所の新築構想を示すなど、新施策をつぎつぎに打ち出し、新しい水海道の建設に力を入れた。