菅生、内守谷の合併

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昭和三〇年二月ごろになると、北相馬郡の菅生、内守谷の二村は、周辺に谷和原村、守谷町が成立するに伴い、孤立化する危機に見舞われた。そこで二村の鈴木、染谷の両村長が正式に水海道市への合併を希望する旨を伝え、水海道市側においても迎え入れる線で話がまとまりつつあった。内守谷村では二月二四日には合併調査委員会を開き、菅生村の態度いかんによって、同村と同一歩調をとるか、単独行動にふみ切るかを協議し、菅生村の態度を待って最終判断する、と決定していた。
 しかし菅生村内では水海道市への合併について意見の一致がみられずしだいに雲行きが怪しくなっていた。三月一二日の村会に先立って開かれた調査委員会には反対派村民が多数押しかけ、合併阻止を叫んで示威運動を展開し、警察官が警戒にあたるなど、一時は険悪な雰囲気になった。時あたかも同日、水海道市議会が開かれ、川又地区の合併決議に続いて、内守谷、菅生両村の合併が協議されることになっていたが、菅生村の情勢が伝えられると時期尚早論が出て、結局市側としては、同村の正式決議機関の決定を待って採決を行うこととなった。
 また、内守谷村でも合併消極論がでるなど、この時期の合併は、四月の統一地方選挙との関連もあって急ぐ必要に迫られていたのであったが、一時絶望的な状況となった。しかしこの両村においても、いずれは近隣市町村との合併が不可避であったため、紛糾後約一年をへた昭和三一年になって、合併が再び議論され、水海道市側からも働きかけが再開された。また県からも土浦、下館の各支庁を通して指導等が強められ、内守谷村では昭和三一年三月一五日、菅生村では同月二〇日に合併決議が採択されることになった。しかし菅生村内にはなおも守谷町への合併を希望し、場合によっては分村もあり得るという強硬論も残されたが、そうした事態は起こらず、四月一日を期して水海道市に編入、合併となった。