最初に前項で検討した町、村内他産業の動向とも関連する専業、兼業別農家の実情をみると、第七二表のとおりである。専業率の最も高い大花羽村は九〇パーセント近くであり、以下菅生、菅原、大生の各村が続き、農業依存の高さが伺える。逆に水海道町は、兼業率が五四パーセント余、それも圧倒的に第二種兼業(農業以外の部門を主とする)が多い。これは明らかに商業や公務・サービス部門での従事者となっていた。
第72表 専業兼業別農家数 |
総 農 家 数 | 専 業 農 家 | 兼 業 農 家 | 内第一 種兼業 | 内第三 種兼業 | 専業率 | 兼業率 | |
大花羽村 | 306 | 275 | 31 | 22 | 9 | 89.8 | 10.2 |
菅原村 | 582 | 473 | 109 | 74 | 35 | 81.3 | 18.7 |
豊岡村 | 560 | 332 | 228 | 118 | 110 | 59.3 | 40.7 |
五箇村 | 429 | 281 | 148 | 87 | 61 | 68.8 | 31.2 |
三妻村 | 490 | 337 | 153 | 81 | 72 | 68.8 | 31.2 |
大生村 | 466 | 344 | 122 | 88 | 34 | 73.8 | 26.2 |
水海道町 | 276 | 125 | 151 | 35 | 116 | 45.3 | 54.7 |
菅生村 | 567 | 464 | 103 | 62 | 41 | 81.8 | 18.2 |
坂手村 | 322 | 227 | 95 | 68 | 27 | 70.5 | 29.5 |
内守谷村 | 260 | 184 | 76 | 50 | 26 | 70.7 | 29.3 |
「1950年世界農業センサス」により作成 |
これに次いで兼業率の高いのは豊岡、五箇、三妻で、中でも豊岡村は第一種、二種兼業の比率が極めて接近していた。これは前項で示したのと同様、他産業従事者や隣接水海道町との関わりが強かったことに起因している。
経営の規模についてみれば、五〇パーセント以上が一町歩以下の小規模経営農家である(第七三表)。町、村別では兼業率の断然高い水海道町で小規模農業経営が多いのは当然であるが、豊岡村もそれに次ぎ、菅生、内守谷、坂手の北相馬三村においても一町以下層が五〇パーセントを超えていた。とくにこの三村は畑作地帯であり、小規模性、さらに兼業率も低かったことを考慮すると、一農家当りの収入は低く、農家経済の条件が劣悪であったことを予想させる。
第73表 経営規模別農家戸数 |
昭和25年 | 昭和30年 | |
戸 % | 戸 % | |
5反未満 | 936(22.6) | 976(22.6) |
5反~1町 | 1313(30.9) | 1288(29.8) |
1町~1.5町 | 1180(27.7) | 1241(28.8) |
1.5町~2町 | 652(15.3) | 656(15.2) |
2町~3町 | 170( 3.5) | 157( 3.6) |
合 計 | 4251(100) | 4318(100.0) |
同前史料及び『水海道市報』第18号 |
農機具、家畜の普及率では、水海道町を除き、牛馬普及率は五〇~六〇パーセント台に達しており、この時期家畜とくに牛が、耕耘、運搬等の手段として、また堆肥生産において重要な役割を占めていたことがわかる(なお菅生村では牛よりも馬の方が少し多かった)。共同利用等による電動機、石油発動機の使用も次第に高まり、とくに鬼怒川東部の水田地帯に利用率が高く、五箇、大生、三妻の各村では八〇~九〇パーセント台の使用率を示した。しかし機械とは言っても耕耘や運搬等の力仕事の分野には未だ普及せず、もっぱら脱穀等の調整過程での使用にとどまり、家畜と機械の併用という農家が多く、それに次いでは畜力も機械も使わないとする農家が多かった。
市制施行当時における水海道市(北相馬三郡を除く)の主要な農作物の作付状況を見てみよう。第七四表は、上位二四位まで(一〇町歩以上作付)を並べたものである。水・陸稲、大・小麦が上位を占めたのは当然であるが、大豆(自給用と販売用)がそれに互して多かった。甘藷はいまだ重要な主食物であったし、あわ、そばなどの雑穀も多い。ビール麦のほかなたねも自給油用もあったが、商品作物としての性格を有して重要であった。昭和二五年当時の作付状況と比較すると(前出の一九五〇年世界農業センサス)、わたも五〇町歩を超えていたが、この当時になるとかなり減少している。また性格が異なるので第七四表には現れていないが、煙草、桑の栽培は重要であった。煙草は北相馬三村とくに菅生村と、鬼怒川西部の大花羽・菅原・豊岡村に多く、九五町歩、桑は三妻、五箇、大生等の鬼怒川東部の諸村に多く、大花羽・菅原両村でも見られ、全体で五二十町歩余あった。養蚕はこの時期未だ伸びていく重要な産業であったといえよう(一九五〇年世界農業センサス)。
第74表 主要農作物の作付状況 |
作 物 | 作付面積 |
町 | |
1 水 稲 | 1744.6 |
2 大 麦 | 794.1 |
3 大 豆 | 516.5 |
4 小 麦 | 511.9 |
5 陸 稲 | 237.9 |
6 甘 藷 | 207.2 |
7 なたね | 104.4 |
8 あずき | 75.3 |
9 とうもろこし* | 69.7 |
10 春植馬鈴薯 | 67.1 |
11 あ わ | 61.9 |
12 ビール麦 | 47.9 |
13 そ ば | 42.5 |
14 さといも | 36.9 |
15 ご ま | 25.1 |
16 ね ぎ | 23.3 |
17 な す | 22.1 |
18 そらまめ* | 21.7 |
19 大 根 | 18.6 |
20 かぼちゃ | 15.7 |
21 結球白菜 | 15.3 |
22 きうり | 15.1 |
23 ごぼう | 14.9 |
24 わ た | 14.0 |
* | 印のとうもろこしとそらまめには未成熟と乾燥種実の両方を含めた。『茨城県統計書』(昭和30年)により作成。 |
こうした農産物のほかに戦後大きな位置をしめていたものは、養兎、養豚、養鶏などで、水海道町に拠点のあった南茨アンゴラ養兎組合は協同組合組織と改組され、大花羽村でもこれらを総合した畜産農協が昭和二四年五月、設立をみた程であった。
なお菅原村の野菜作りは戦前から定評があったが、戦後の食糧危機の頃は主穀生産に変わっていた。昭和二六年頃から再び野菜作りが関心を呼び、伊左衛門新田地区に菅北野菜出荷組合が結成され、東京千住の青果市場と特約関係を結んで出荷を始め、次第に市場で名声を博するようになった。