農業協同組合の発展

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戦時下において農業団体の統制が実現し、いわゆる農業会は、都道府県農業会及び市町村農業会として、農業の国家統制のための機関としての役割を果してきた。戦後諸改革の中で農業会は農民の民主的組織に切り替える必要があるとされ、昭和二一年には役員の改選が行われた。しかしこれだけでは不充分で、影響力の弱まっていた農業会にかわる民主的な農業団体として新たにロッチデール原則に基く農業協同組合の設立がはかられ、併せて農業会の整理についても方針が打ち出された。
 それに伴なって各町、村においても新たに農業協同組合の設立と、農業会の整理、農協への引き継ぎが進行した(第七五表)。設立年次をみても明らかなとおり、昭和二三年の春いっせいに行われており、設立を担った人びとにも当時の町村内の状勢を反映した顔ぶれがそろっている。
 
第75表 各町村における農業協同組合の設立状況
組 合 名設立認可日昭和37年
当時組合
員数  
初代組合長同専務等備     考
大生農業協同組合昭和23.4.8515山本和平本橋信次郎大生農民組合が中心
五箇 〃〃 23.4.15436横田新六郎岡田敏夫役員は農業会より引きつぐ
豊岡 〃〃 23.4.23522小林松三郎荒木直義農業会よりの不良資産引き
つぎ一時経営難
水海道〃〃 23.1.24172神林鎮男(参事)
服部貞次
当初農業会と同居し,昭和
24年全て引き継ぐ
大花羽〃〃 23.7.16323石塚理治石塚玄吾昭和31年再建整備組合法の
適用うける
菅原 〃〃 23.7.10346中島太平農業会からの不良資産等引
きつぎ昭和25年経営難
三妻 〃〃 23.4.23495有田信一郎(参事)
出羽喜四郎
農業会から資産等引きつぐ,
連合倉庫を主体にする。
菅原協和〃〃 26.7.28248宅間栄次郎菅原農協からの脱退者が組
合結成
菅生 〃〃 23.4.5386大滝愹(参事)
大滝寿郎
別に菅生民主農協出来る。
のち吸収
坂手 〃〃 23.5.13313菊田政之助吉岡菊次郎昭和24年農業会から資産等
引きつぐ
内守谷〃〃 23.4.17289瀬崎武雄(参事)
荒井匡雄
別に内守谷第1農協出来る。
のち吸収
『茨城県農協十五年史』により作成


 
 大生村、三妻村等においては農民組合運動との関連で、農協の指導者には農民運動のリーダーが就任した。また村内の対立を反映して、菅生、内守谷等では別の組合が結成され、少なからず混乱した。
 五箇村では初代組合長等の役員に農業会の役員がそのまま移行したため、比較的スムーズに進行したが、多くの農協では農業会の不良資産を引き継いだために経営に大きな問題を生じさせることになった。
 その中でも菅原村の場合は、村政上の争いとも重なり組合が分裂するという大混乱が起きた。同農協は農業会からの不良資産をかかえた上に、北相馬郡大野食品会社(澱粉工場)に対する生甘藷の売掛金七三万円がこげつき、昭和二五年一一月には貯金払戻しの停止を行い、四八万円にも上る欠損金を出し、経営が行き詰っていった。折しも、昭和二六年に行われた村長選挙は、現職、新人の一騎打ちとなり、両者同数という稀にみる結果を生じ抽籤によって新人が村長に就任した。元村長派は選挙戦で農協経営の不振が悪宣伝されたのが響いたと判断し、現村長(革新系)に連なる組合長の下に留まるのは潔しとしないと、二五十余名が集団で脱退して、新たに保守系の協和農業協同組合を結成するに至った。そして新組合の組合員が残している貯金を払い戻すよう折衝したが、旧組合側は役員会の凍結の決議が生きているとして、これを聞き入れなかった。
 このあと両農協側は互いに訴訟をおこして反目し、県下で唯一、昭和二六年度供出米が未完了になるという事態に立ち至った。こうした事態にのぞんで昭和二七年六月結城地方事務所長の落合庄次、県会議員の染谷秋之助、さらに周辺町村長等が両農協と話し合いを重ね、供出額、還元配給米額等の割りふりを決定し、訴訟等未解決の問題を残したまま妥協点を見出した。そしてこの間村民のなかにも村内平和を望む者が多くなり、翌年三月に至って、漸く双方から出された「総会無効」その他数件にわたる訴訟事項がとり下げられ、円満解決となった。しかし両農協が一体化するまでには至らず、そのまま経営を続けた。昭和三〇年代を通して各農協とも販売、購買、預金保有等の事業において著しい進展をみた。とくに菅生村の二八坪のコショウ乾燥所、五〇五坪の共同集荷所、坂手村の青果物共同集荷所、三妻農協におけるトマト、ねぎ、いちご等の青果物共販体制、養豚経営普及等の共同販売事業、豊岡村の報恩寺土地改良区決定による土地改良事業の施行等々、各方面で大きな成果をあげた。