水海道市の形成は、水海道町のもっていた都市的機能、中でも近世以来の商業都市的な機能に負う所が大きかった。しかし敗戦後の経済の混乱、物不足の中で、町の商業は不振におちいっていた。とくに昭和二四、五年頃の不況期にあっては、町の商工会も会費徴収に窮して一時期解散に追い込まれる程であった。
この町の商工会が行っていた事業は、主として夏期の祇園祭りや、関東一と言われた秋のゑびす講の主催団体となることであり、大売り出し、福引き等の客寄せ活動を行うことを専らとしていた。商工会が解散してしまったため、町に水海道振興会が発足して商況の挽回策を検討した。時期たまたま、昭和二五年には、朝鮮戦争による特需景気の到来となり、町には活気が戻り、夏の花火大会を前に、商工会再建が議論され、再建準備会が結成されて、秋のゑびす講を前に再発足をすることとした。こうした商工会に対しては、「大売出しの計画や税金引下げ運動ぐらいが関の山」といった活動を脱して、大水海道の出現をはかるべく衆知を結集して欲しいという要望(「商工会に望む」『文化茨城』第六二号 昭和二六年二月)も出た。商工会の再建によって、商工会主催福引き大売り出しは好調に伸び、売上げ金一〇〇〇万円と言われた。商工会では水海道商工振興委員会、県連合商工会議所、いはらき新聞共催の地方振興座談会を開き、地方産業一般について論じた。また商店診断が行われ、専ら「お店改造」が中心課題となっていった。商工会でも春には桜の名所八間堀でさくら祭りを計画、夏には伝統の関東花火大会と七夕祭り、祇園祭りなどを合わせて計画、秋にはゑびす講福引きや大売り出しを実施するなど、主に商業の振興を図った。さらに、昭和二七年からは町内商店六十余りが参加し、商工協同組合を結成して、月賦販売を新たにとりいれた売り上げの向上を目指した。
また、商工会は昭和二八年から話題になった町村合併の過程においても先取り的な動きを展開し、一町一三か村連合の福引き大売出を企画するなど積極的に活躍した。このように商工会の活動は既存の商業都市に活気を呼び戻すことを専らとしたものもあったが、次第に、新しい財源の確保などを目指す地方自治体の動きと、企業の要望が一致した企業誘致活動に力を入れるようになり、水海道市域内にも相ついで企業が移転、拡張を企ててきた。
この町村合併の動きに臨んで郷土史家富村登は昭和二九年、『文化茨城』に十数回におよぶ連載の所感を寄せ、新しい都市のあり方を提言していった。このなかで富村は、洋食店があること、うまいもの屋があること、農村がうるおうために高級園芸や花卉園芸などがとりいれられること、酪農、米と乳などとあわせて、公民館、公会堂の利用、郷土図書館、新市街の設置等を論じた。また近世以来の都市建設の歩みなどにも言及した。