結び――市政の展開と都市計画

306 ~ 307 / 503ページ
近代史の歩みに学びながら、富村のイメージした都市とは、人の肌のぬくもりを感ずる、いわば手づくりの都市像であった。確かに市域の定まった昭和三〇年代初頭までは、従来の基盤の上に、農業と商工業が調和しつつ発展し、人口流出を阻止しうるような魅力ある都市づくりが求められていた。
 しかし、昭和三〇年代後半から全国的に進行した経済の高度成長は、首都五〇キロ圏内にある水海道市の姿を大きく変化させ、市政の重点もそれらに対応すべく変っていった。
 市ではまず昭和三四年に「新市建設五か年計画」を策定し、三六年四月には、財団法人「水海道市総合開発公社」(理事長は市長)を設立、発足させ、工場や住宅団地を誘致するための総合的、計画的、効率的な土地資源利用、開発の総路線を敷設する。同年、公社は早くも工場誘致を開始し、八月頃には五社、三年後の三九年四月までに一三工場の誘致に成功した。
 これらの背景には、産業基盤整備に不可欠な道路、橋梁の新設、修築があり、この間の美妻橋(中妻町―大輪町)、玉台橋(内守谷町―谷和原村小絹地区)の架設、坂手貫通道路の完成などは、新しい自動車時代の到来にも対応しうる重要な施策であったといえよう。
 さらに三九年七月には、市役所の機構改革が大胆に進められ、企画開発課が誕生する。そして、同課が中心となって「水海道市建設実施五ケ年計画」が樹立されるが、これこそ市政十年を迎えた水海道市の新しいマスタープランであった。
 そして同年、それを祝福、象徴するかのように「新豊水橋」が開通する。それはあたかも、明治二三年(一八九〇)、水海道町、豊岡村間に「長百五十五間、工費七千八百余円」を投じて、念願の「豊水橋」が架設され、現水海道市域の一体化が急速に進む契機となった時から数えて四分の三世紀、七五年を経過する年であった。
 その後の水海道市は、翌昭和四一年「首都圏近郊整備地帯」の指定を受ける。この地域指定こそ、水海道市の都市としての内実をいっそう充実させるものに他ならなかった。後に続く広域市町村圏事業と相まって、公営住宅、道路、上下水道、河川改修、育児・教育・福祉施設、環境衛生施設、公園緑地事業、消防事業遂行などに、有利かつ効率的、計画的な実現を保障する道だったからである。
 かくして先見的な郷土史家富村登の示唆が、市民のたゆまぬ叡智と営為を礎に現代的に展望・達成される季を迎えることになったのである。