4 三坂小学校及学事熱心家

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 豊田郡三坂村は南北一里余にして其戸数三百の巨村なれは自ら人情風俗等も異れり小学校は明治六年の設立に係り廃寺を以て校舎に充て其位置少く北方に偏せしに依り通学に不便なりしが十三年に至り南方人民中其位置不便なるを唱ひ遂に南部に一の分校を設け以て児童通学の便を計り其後両校とも訓導を置き頗る盛なりしが十四年に至り戸長撰挙の事よりして村内二派に分れ互に相凌轢せしかば甲派学事に熱心すれば乙派之れを妨害し乙派学事に尽力すれば甲派之れを妨害するの有様なれば学事は益々衰微に赴くの模様あり加ふるに世上一般の不景気なれば衰微益々甚しく十七年中に至り両校共訓導は其職を辞して助手のみとなれり当時村民二校を置くは不経済なり中央に一校を新築すれば敢て通学に不便なしと云うものあり且つ一昨年学区の改正等もありたれば二校を合併して一校を新築することに決せしなり之を忌むものの所為にや再三北部の本校に放火したるものありしが幸にして之を消止め其災に罹らざりしなり其後に至り本校取崩し又は新築の事に尽力するものあれば其人の家に放火し加ふるに暗殺する抔といふ張札をなすものありければ村内の者誰一人率先して新築に着手するものなく郡衙より督促頻りなりしにも拘はらす日一日と遷延せしが戸長山田久吉氏赴任以来村内の協和を計りしに依り随って学事も追々旧面目を改めんとするの有様なれども前の始末なれば未だ新築等の事に着手するものなかりしか学務委員改撰の事ありて石塚猪三郎氏当撰し同氏は同村一等の有力者なれば比度こそは学校新築も遠きにあらずと皆喜び居れり昨年中学務委員は廃止となり同氏も其職を止めたれども学事の為めに尽力せらるることは以前に異ならざりしなり当時世上には改正教育令を誤解するもの多くして従来雇ひ置きたる訓導も解雇し取掛りし建築も中止するか如き有様なるも同氏は人毎に説き家毎に諭して曰(いわ)く普通教育は二代目の我を教育することにして国家の興廃は此の普通教育にあらされは之れにより貴重なるものなかるべし一日も忽にすべきにあらんや仮令政府にては今日の如き不景気には子弟を教育せざるも可なりと云うも我々か其意を奉すること能はざるなり況んや今回の改正教育令の主旨たるや徹頭徹尾教育の改良上進と普及を計るに於てをや我々は公益の為めには兇徒の為めに家を焼るゝも可なり身を殺さるゝも可なりと率先せしかば他の有志者も追々賛成するものありて旧校舎取毀ち新校舎建築に着手せり其取毀ちの際には警察官の臨監を乞ひ村民一同無給にて其事に従ひ昨年十一月に至り愈其功を竣へたり其間石塚氏は毎日未明より家を出て日の晩れざれば家に帰ることなく或は兇徒の為めに材木等を窃取せらるゝの恐れもあればとて寝具もなき校舎に泊り其他工夫人足を董督するの状恰も狂者の如くなりしよし同月二十六日を卜し開校の式を挙行せり当日は学校の門前及び玄関には国旗を交叉し庭中には数百の紅灯を縋掲し村内は家毎に国旗を翻し或は餅を搗き抔して之を祝せり且つ未明より煙火を打上けしかば近郷の老若男女は其景況を見んとて打集ひたるもの其数を知らず午後二時頃に至り学務課員朝倉達男氏及び同郡書記国府田氏臨校せらる其他隣村戸長書記村会議員並に聯合内の教員助手等を招待し列席するもの無慮七八十名席定まりたる後朝倉氏開校の祝辞並びに村民に望む所を演へられ戸長山田氏之れか答辞をなし続て国府田氏同校教員建築委員総代生徒総代隣村戸長書記教員有志者等の祝文演説あり了りて生徒には饅頭を頒ち臨席者の為めには懇親の宴を開けり校舎は間口九間半奥行四間半の平屋作りにして美を飾らず専ら堅牢を主とし光線の射入空気の流通尤も好く其位置たるや西に絹川の清流あり東は渺茫たる平田を隔てゝ遙かに波山の雲表に聳ゆるありて実に山水の景を占めたる所なるよしなり
                       〔『茨城教育協会雑誌』二五号 明治一九年三月一二日〕