文化の曙は川西から

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町域はそのほぼ中央を貫流する鬼怒川によって対照的な二地域にわかたれる。いわば石下町の川東と川西である。石下地方に人々が住みつきはじめたのは今から一万年から六〇〇〇年くらい前、いわゆる縄文時代早期から前期にかけての時期であった。町域は、古鬼怒湾を縁(ふち)どる複雑な入江を形成していた。川東や飯沼は、砂泥底の浅い海でその上にポッカリと向石下や国生等の台地が浮かんでいた。鴻野山の貝塚からは、多くのヤマトシジミやハマグリのほかに、ボラやクロダイの骨などを見出すことがある。人々は狩猟漁撈採集生活をしていたのである。縄文後期から晩期にかけて海岸線は現在の東京湾沿いに大きく後退し、町域の自然景観は現在に近くなってくる。しかし川東は毛野川(鬼怒川)の変化きわまりない乱流と湿地帯で構成され、川西の飯沼には満々たる水がたたえられていた。
 この時期の終りごろ大陸から渡来した稲作文化が波及してくる。これが弥生文化である。馬場堤下遺跡や国生本屋敷遺跡に足跡を残した人々は、台地から鬼怒川に流れ込む小支流がつくり出した小湿地に水稲農耕を営んでいたのであろう。
 農耕生活に入ると生活は比較的安定し、人口も増加する。それを裏づけるように七世紀ころまでの数百年の間に町域内の土師器片や須恵器片の発見される古墳時代の遺跡数は、数千年にわたる前代の縄文時代のそれの数倍に達する。地域にも貧富の差が生じ、六世紀になると支配階級としての豪族層が発生する。馬場・御林・国生北山・神子埋等の古墳群は、彼らを埋葬するためにつくられたものであった。そのうち六所塚古墳(神子埋)は、七〇メートルの長径を持つ県下有数の前方後円墳である。外型が前方後円墳であることは被葬者がすでに大和朝廷の支配下にあった豪族であったことを示している。おそらくは後の郡司層につながる有力者であった。
 大化改新(六四五)後、町域は下総国結城郡、後その南部に岡田郡が設置されると岡田郡に属し、さらに延喜四年(九〇四)同郡は豊田郡と改称された。こうして町域は「倭名抄」に見える豊田郡岡田郷・飯猪(いいぬま)郷となる。このころ豊田郡のどこかに生れたのが平将門である。「将門記」に「将門は昔の宿世(すくせ)によって、東海道下総国豊田郡に住す」と見え、その本拠地は豊田郡にあった。承平七年(九三七)、将門は伯父良兼との子飼・堀越の合戦に敗れ、妻子とともに猿島郡の葦津江に隠れた。葦津江とは豊田郡と猿島郡の郡界を画していた飯沼に比定される。将門にかかわる地元の伝承も少なくはない。国生の字古明神は将門の父良持が向石下に勧請した香取神社の旧跡地ともいわれるし、向石下の鬼怒氾濫原の自然堤防上の館跡は将門出生の地とされているが、現存する史料・遺跡形態は、必ずしもこの伝承を裏づけない。また岡田郷国生は「将門記」の国亭と同じ意味で国庁が転訛して「こっしょう」になったという。いずれにせよ川西は原始・古代における石下の歴史の主役たちの舞台であった。