毛野川の乱流域であった川東にも、若宮戸や豊田地内から、小数ながら土師器片が出土している。九世紀代になると氾濫原の自然堤防上や、やや小高い砂洲上に人が住み、毛野川の氾濫と闘いながら水田を開きはじめたのである。一二世紀初頭、この開拓事業を、上から組織的に実施していったのが、桓武平氏出自の豊田氏である。
豊田氏は平貞盛の曾孫多気重幹の三子、政幹を祖とする。政幹は「常陸大掾系図」に「石毛荒四郎」とみえることから、開発領主として豊田郡内の鬼怒川と小貝川の間の氾濫原を開拓し、次第に在地支配を強めていったものと思われる。豊田氏は滅亡まで二〇代もしくは二二代ともいわれ世系は必ずしも詳らかではないが、以後本豊田の地に豊田城を築き、真壁の小田氏、下妻の多賀谷氏と鼎立する北下総の有力国人(こくじん)として戦国期を迎える。文明期前後に(一四六九~八六)豊田氏は石毛城と向石毛城を豊田城の前衛とし、その後も小田氏と結んで多賀谷氏と対立抗争をくり返したが、治親の代の天正三年(一五七五)もしくは同六年、多賀谷政経に滅ぼされた。以後慶長六年(一六〇一)まで町域は下妻多賀谷氏の支配するところとなった。
豊田氏は多くの足跡を町域とその近隣に残した。その本拠と伝えられる豊田城はかつての姿を知るよしもないが、小字名よりその規模を検討するに、城郭を中核として町割りをした形跡がはっきりとしている。中世末期の城と城下町の一典型の姿をここへしのぶことができる。規模は多賀谷氏の城下として下妻や、結城にさえ匹敵する。その遺跡が湮滅したのはまことに惜しいことであった。豊田氏縁故の寺に大房の真宗大谷派東弘寺、本石毛の曹洞宗興正寺、本豊田の竜心寺等がある。ことに竜心寺は同氏の祖政幹が開基となって若宮戸に創建し、のち移されたものという。またその氏神が上郷(現つくば市)の金村別雷神であった。町域にはその遺臣と称する旧家もあり、また北茨城市の磯原や埼玉県吉川町大字柿木には豊田姓の家が多い。柿木のその祖は豊田氏滅亡の折、下妻街道ぞいに落ちのびたものという。ここに接する埼玉県三郷市には江戸時代から金村別雷神の講集団があり、今につづいている。かすかに地域と家に伝えられた伝承が、今に人と人との交流を生んでいるのである。