開けゆく町の東西

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豊臣政権下の町域は、近世大名化した下妻多賀谷氏六万石の藩領となったが、その多賀谷重経は、関か原の戦に、西軍と通じたとして、慶長六年(一六〇一)改易となり追放される。すでにして豊田、小田の両氏滅び、ここにまた多賀谷氏滅ぶ。北総地域の鎌倉室町期以来の根生の領主層と家臣たちは武士としての身分を否定され、あるものは故郷を放れて諸国を流浪し、あるものは土着して農民や町人となり、進駐してきた新領主層の支配下に、新しい江戸時代の町と村をつくりはじめるのである。これこそ近・現代に直接的につながる町と村であった。
 慶長八年(一六〇三)江戸幕府の成立以後、町域の村々は幕府の直轄領あるいは旗本知行地に組み入れられた。とくに五代将軍の徳川綱吉のときに施行された元禄地方直し以降は御領(幕府直轄領)と私領(大名飛地(とびち)と旗本領)の入り交じった極端な入り組支配となった。この特色を保持したまま近代の夜明けを迎える。
 開幕後八代将軍吉宗の行なった享保の改革の頃までの約一三〇年間、農民たちの生活向上にもっとも大きな役割りを果したのは、幕府の大規模な自然改造による新田開発と、それに対応した有力農民を中心とする農民による新田開発であった。この結果川東と川西の自然景観にも大規模な変革のメスが加えられる。慶長十三年徳川家康の側近にして代官頭(だいかんがしら)伊奈忠次は、飯岡三郎右衛門、吉原八右衛門、新井五郎左衛門、小口孫兵衛、増田大学助、飯島玄蕃、国生二郎右衛門ら中世的名主(みょうしゅ)の系譜をひく有力農民に、免租地(無税地)一町を与えた。彼らを中心として谷原(やはら)開発を進めようとしたものである。しかし町の東西の低湿地・湖沼地帯の本格的な開拓の画期となったのは、元和から寛永期にかけての幕府による利根・渡良瀬・鬼怒の大改修工事であり、ついで享保改革の新田開発政策だった。
 以上の幕府の政策を巧みに利用し、ときには領主をつきあげながら私たちの祖先は、江戸時代の村と、村の地域連合をつくってきた。川東の旧毛怒川氾濫原の開拓による寛永期における新石下村その他の新田村の成立、川西の享保七年(一七二二)にはじまり、同十三年に一応は成就する飯沼の干拓新田計画、近世後期になって寛政元年(一七八九)から文政十二年(一八二九)にかけての江連用水再興運動等は、その村づくり運動がもっとも高揚した時期におこった事件であった。ここに示される農民たちの悲願は近現代に受けつがれてゆく。