近代への歩み

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慶応三年(一八六七)江戸幕府一五代将軍徳川慶喜は大政を奉還し、翌年の全国的な内乱(戊辰戦争)を克服して明治維新政権が登場する。県北では水戸藩の天狗党と諸生派が血で血を洗うように争い、県西においても下妻、結城藩で革新派と保守派との決戦が行なわれ、武士たちは、豪農・豪商層をまきこんですさまじい政争を展開した。
 このころ飯沼の沼廻りの人々は連年の水害に苦しんでいた。この動乱の渦中の慶応三年三月、馬場村の秋葉源次郎は、利根逆水防止の工事を幕府に訴えた。翌年四月十一日、新政府軍は江戸城に無血入城する。農民たちの政治的対応は早い。武士たちが天朝方と幕府方とに分れ、戦闘をくり返しているのに、同年四月十八日夜、新石下住吉屋へ集合した本石下村他二六か村代表は、天朝方に兵食賄料を上納することを一決している。民衆のための御一新=世直しを期待したのであろう。
 同年六月、町域は常陸知県事あるいは下総知県事の管下となり、明治二年(一八六九)若森県、同四年の廃藩置県後に印旛県、同六年千葉県をへて、同八年五月七日最終的に茨城県に編入された。さらに明治憲法が公布された直後の同二十二年四月一日、市制町村制施行により豊田郡石下村、同郡豊田村、同郡玉村、岡田郡岡田村、同郡飯沼村ができ、同二十九年結城、岡田、豊田三郡は合併して結城郡となる。このうち石下村は翌年九月一日に町制を施行する。こうして昭和二十九年(一九五四)七月二十一日新しい石下町が成立するまでの行政区画が確定する。