米と紬と近代精神

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幕末維新期から明治三十年代にかけて地域の社会構成にも大きな変化があった。江戸時代の村内の高持百姓と水呑百姓の二重構造は地主と小作層の二極構造へと決定的に分解する。その帰結が体制的寄生地主制の成立である。町域の地主制の特色は、概していえば在村の中小地主と自小作層が比較的多く、手作り地主としての性格を強く残存させたことであろう。中小地主と自小作層は、総体としては農地改良事業に専念するとともに、一部のものは酒や醬油の醸造業、特産の織物業の経営にのり出してゆく。
 明治三十二年耕地整理法が成立すると県下に先がけて耕地整理事業に着手したのが川東の石下町ほか六か村である。当初石下町、玉村、豊田村の地主有志によって企画され、明治三十九年工事に着手、同四十四年には五箇村、宗道村、蚕飼村が加わって石下町ほか六か村耕地組合が成立した。以後二十三年をへて八一七町を整理し、昭和三年(一九二八)に完成する。整理後地域の大部分を占めた湿田は乾田に一変して二毛作が可能となり、生産力は二倍以上になった。川西飯沼では利根川への排水不良と逆水による水害に苦しんでいたが、明治三十一年飯沼反町水除堤水害予防組合を設立した。反町地先大堤防と近代的自動式閘門は、同年十月二十八日起工され、同三十三年四月三日に竣功した。しかし江川上流、飯沼周辺からの集水は防ぎようがなく、内水排除が次代の課題となる。こうして町域は県下でも屈指の穀倉地域に変貌しはじめるのである。
 耕地整理事業の中心となった地主層は、川西などの純農村地帯では質屋・米穀商・肥料商などを兼ねるものも多かったが、幕末期すでに市場町が成立していた本石下、新石下の地主や自小作層のなかには積極的に新分野の企業経営にのり出すものが出てくる。これが酒や醬油の醸造業と特産物としての地位を確立した織物業である。現在の石下紬は手紡糸応用正絹紬織であるが、成立期石下織物業の中核は、藍染紺地に茶またはねずみ色の縞木綿であって通称「石下縞」と呼ばれた。最盛期の明治二十九年には三三万九〇〇〇反を産したという。以後「石下縞」は急減し、明治三十年代の後半から絹綿交織の新製品がとってかわる。この新製品も在地企業家の技術改良の成果であった。
 明治後期から大正期にかけては、耕地整理事業による農業生産力の増大、あるいは織物業の不況からの脱出と興隆にみられるように、町域の経済の発展が、比較的順調に推移した時期だった。この地域の歴史的条件を背景に登場する長塚節は、いわゆる寄生地主ではなかった。自ら鍬をふるう農民であり、数人の下男下女を指揮して農業経営にあたる企業家でもあった。また日本教育史に高く位置づけられる大正期の石下の自由教育も、若い教師たちを支えた町の自立的小経営者たちの協力があってはじめて可能だったことも忘れてはならないだろう。