現代の石下と展望

27 ~ 28 / 1133ページ
昭和二十年(一九四五)八月十五日、わが国はポツダム宣言を受諾し、長い戦争は終る。敗戦後の社会的・精神的混乱は大きかった。その混乱のうちに進駐してきた連合国軍最高司令部(G・H・Q)によって、天皇制を支えた軍閥、財閥、寄生地主制は解体された。とくに寄生地主制解体の目的をもって行なわれた農地改革は、多くの自立的農業小経営者を生み出し、戦後の生産力復興の基盤となった。いわゆるG・N・Pが戦前の数値に近づきつつあった昭和二十九年十月一日、石下町は、飯沼、岡田、豊田、玉の一部(原宿・小保川・若宮戸)を合併し、新しい石下町が発足する。このころまでに町域の農業や織物など伝統産業も復活し、町の東西の耕地整理事業もほぼ完成に近づく。
 この直後からはじまった日本経済の高度成長は、戦後幾度かおとずれた経済的危機を克服したばかりでなく、日本を経済大国にまで押し上げた。町当局も昭和三十六年に「工場誘致条例」を制定し、六十一年までに町域に進出した事業所は三九社におよぶ。その多くは従業員数一〇〇人以下の中小事業所ではあるが、昭和五十五年における進出企業の従業員数は二三〇〇人に達する。これにより昭和三十年以降町域の農業を中心とする第一次産業の就業者数は減少しはじめ、第二次産業および第三次産業の構成比は着実に増加している。首都より五〇キロメートル圏にある町域の立地条件からすれば、この傾向は今後も変わらないとみてよい。伝統に立脚した近代的な農業経営、それに照応するような緑と伝統の中の中小企業の繁栄、これこそ現在と未来の石下町の目指す姿であろう。
 私たちの祖先がこの故郷に住みはじめて以来、農耕生活のはじまり、古代国家の成立など革命的な変革はあった。しかし半世紀にも充たない間に、第二次世界大戦、祖国の敗戦、復興という大変革を経験した世代はかつてない。二度と冒してはならない戦争のもとに苦しんだ世代こそ戦後の復興の担(にな)い手であった。昨日のように思われる敗戦と、その前後の苦しい生活を立証する史料もすでに少ない。原始よりの郷土の歴史をふり返りながら、あらためて歴史的に貴重なこの世代の経験を、史料とともに、次の世代に語り伝えたいとの感を深くするものである。