六所塚古墳
鬼怒川・小貝川と東仁連川など河川に挟まれた石下地方には、各所に台地が見られ、古代の人々に住み易い生活の場を与えていたと思われる。
石下地方に何時人々が住みはじめたかは、発掘調査も十分でなく、また、当時の遺物も発見されていないので明らかではない。
しかし、石下以外の地で台地に堆積する関東ローム層から旧石器時代の遺物が発見されているので、今後発見される可能性があろう。
火山活動が停止し、日本列島が今のように温暖な気候を迎えた一万年近くなると、石下地方にようやく人々が住みつき、国生や蔵持付近に生活の跡を残している。海水が上昇し、低地に海水の流入する六〇〇〇年前には、さらに崎房、鴻野山、篠山地区にも生活の場を広げて、各地に貝塚を残すようになった。
貝塚は縄文時代の初め頃、約一万年前から農耕生活の開始された西暦紀元前、二~三世紀の頃にかけて営まれたもので、本県は勿論、ほぼ全国の海岸や湖沼に面した台地や台地斜面に多く発見されている。
本県には三〇〇か所に達する貝塚が知られ、霞ケ浦や北浦をはじめ、利根川、小貝川の下流地域に多く見られるが、久慈川、那珂川流域にも発見されており、また、利根川、小貝川では栃木県、埼玉県内の上流にも発見されている。
貝塚の発見される地点は、海抜一五メートルから二五メートルの範囲であるが、猿島郡五霞村では海抜一メートル付近で発見され、古東京湾の海岸が深く入りくんでいたことを物語っている。
貝塚は私たち祖先が食したシジミやハマグリ、アカニシ等の殻(から)を捨てた「ゴミ捨場」の跡であるが、貝塚からは貝殻だけでなく、猪、鹿等の獣骨、タイ、スズキ等の魚骨をはじめ、獣骨や魚骨等で作った釣針や銛(もり)をはじめ、生活に使った土器や石器等も捨てられており、当時の人々の生活の様子を知ることが出来る。
石下地方で最も大きく、また古くから名の知られた貝塚は鴻野山貝塚である。
この貝塚は、舌状に伸びた台地に、数か所に亘って見られ、大集落の営まれていたことを示している。
鴻野山貝塚は縄文時代の前期の貝塚であるが、この時期は海水が陸地に深く流入した時代でもあり、人口が増大しはじめた時期でもある。縄文時代の文化は、この時期から中期にはピークとなったが、後期から晩期になるにつれ、貝塚の数は減少し、包含遺跡も同じ様な傾向が見られるのである。
この減少現象は調査不足によるものなのか、生活様式の変化によるものか詳かではない。
縄文晩期から弥生時代にかけて、稲作文化が伝えられる頃、中国大陸では前漢時代を迎え、強大な国家が形成されていただけでなく、青銅器、鉄器が使用されていた。大陸に近い北九州地方では中国との交易のあったことが知られ、中国の書物には倭の朝貢があったと伝えられている。このような事情は時代の降るに従って我が国にももたらされ、銅鉾、銅剣や銅鐸等が発見されるようになり、北九州では甕棺内から漢式鏡が発見されてもいる。
小国家が群立した時期もこの時期で、その意味で弥生時代は大きな変革のあった時代として特筆されよう。
北九州に伝播した水稲文化は、三世紀半ば頃には関東地方にも波及したと考えられ、本県では那珂川流域に達したことが知られる。石下地方もほぼこの時期には水稲耕作が展開されたと思われるが、その時期は余り永続きせず、次の古墳時代に入ったと推定される。
古墳時代に入ると、豪族達は各地に古墳とよばれる墓を残した。町内でも馬場、御林、神子埋等の地区に古墳群が発見されている。
特に神子埋には八〇数基の古墳が営まれ、その中には六所塚のような本県有数の一大前方後円墳が見られることは、国造級の豪族の存在したことをうかがわせるのである。
このような古墳の存在によって、石下地方がこの時期に多くの人々が住み、発展したことを物語っているといえよう。
弥生時代に見られた「クニ」と呼ばれる小国家群は全国的統一国家としての大和朝廷に逐次統合され、石下地方はやがて下総国に入り、岡田郡の一部となった。
九世紀に入ると、この地方には桓武天皇の曾孫、上総介高望王の後裔たちが土着して勢力を張っていたが、承平年間になると、武蔵権守(ごんのかみ)・興世(おきよ)王、武蔵介・源経基と足立郡司が対立したのをはじめ、平将門が反乱をおこした。
将門は父・良将の歿後、田畠の争いから国香ら一族と対立し、天慶二年(九三九)には謀反人・藤原玄明(はるあき)を援けて常陸国衙をはじめ下野・上野の国衙をも襲って、やがて「新皇」と称し、文武百官を任じて国府を定めたという。国生は国府の跡と伝えられている。
天慶三年正月には将門追捕使が任ぜられ、将門誅殺の報が都に伝えられたのは同年二月といわれるから、天慶二年の終りから、天慶三年初の頃と思われるが、将門の争乱は、律令制国家権力に対する新興武士の抬頭と、来るべき政治体制の変革を意味する点で大きな歴史的事象であろう。