日本考古学の黎明

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日本で《考古学》という学問が本格的に研究されるきっかけをつくったのは、明治十年(一八七七)、E・S・モース(一八三八~一九二五)による大森貝塚の発掘であった。彼は動物学研究のために来日したが、横浜から東京へ向かう汽車の窓から大森貝塚を発見し、数か月後に発掘を行なった。彼は多忙なために、調査を途中から弟子である佐々木忠次郎らに委任したが、調査結果については、出土遺物を中心に雑誌に発表したり講演を行なったりして、その広報活動にもつとめたのである。
 彼は、報告書("Shell Mounds of Omori"1879)の中で、出土した土器をコード・マークト・ポタリー(Cord Marked Pottery)と命名している。この言葉は後日、「縄文土器」と邦訳された。
 

Ⅱ-1図 モースの発掘した縄文式土器(『大森介墟古物編』より)

 このモースの発掘を契機として、日本各地で発掘が行なわれるようになった。日本人による最初の発掘は、明治十二年(一八七九)前述の佐々木らにより、稲敷郡美浦村に所在する陸平(おかだいら)貝塚で行なわれた。彼らはこの調査で、陸平貝塚から出土した土器は、大森貝塚のものと厚さが違うことに着目し、前者を厚手式、後者を薄手式と呼び、これらを時代による違いと考えた。大森貝塚ではハマグリが、陸平貝塚ではシジミが大半を占めることから、厚手式の方が薄手式よりも新しいとする現在の編年と逆の結論を出した。しかし、科学的な分析方法には注目すべきものがある。
 このような試行錯誤を繰り返した結果、遺跡において自然堆積した地層の上層から発見される土器は、その下層より出土する土器よりも新しいという法則(地層累重の法則)を発見した。これによって、同一層位の土器であれば同時期であるとして、一つの「型式」を設定し、時代順に並べていく「編年」研究が行なわれていった。その結果、土器をモノサシにして縄文時代は、草創・早・前・中・後・晩期の六期に区分することが一般的とされるようになった。さらに、土器研究によって、各時期の文化の特徴やその範囲などをとらえる可能性が出てきた。