貝塚や集落の形成(早期)

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草創期にくらべて早期は、気候がさらに温暖になり、氷河は解け、海水面が徐々に上昇する。このため従来陸地であった部分でも、標高が低ければ海水が浸入し、現在よりもかなり内陸に海岸線が形成され、このような現象を「海進」と呼び、逆に海が後退して浅くなることを「海退」と呼ぶ。海進は、縄文時代早期後半から前期にかけてピークをむかえ(最大海進)、以後中期に向けて徐々に退くが、後期になると再度小さな海進がみられる。縄文前期海進では、特に関東地方が著しく、沖積低地の大部分が遠浅の海となった。このような環境のなかで縄文人たちは、海からの幸を自分らの食料とし、台地の縁辺部に集落や貝塚を形成した。
 茨城県南部の利根川、霞ケ浦周辺の沖積低地は、古鬼怒湾と呼ばれた砂泥底の海で、複雑な入江の海岸線を形成していた。特に霞ケ浦周辺には、考古学史上著名な大貝塚や遺跡が数多く残されている。現在石下町に残っている鴻野山貝塚や崎房貝塚は、古鬼怒湾の最大海進時に形成されたものと考えられる。
 

Ⅱ-5図 縄文時代前期前半の貝塚と海岸線
(『茨城県史』原始・古代編より)

 貝塚は、形成当時の人々が食料の食べ滓を捨てた場所であると同時に、そこには墓地や住居もつくられた。鴻野山貝塚や崎房貝塚はともに、住居の廃絶によってできた窪みに貝殻が捨てられて形成されたものである。
 縄文時代早期から前期にかけては、この鴻野山貝塚や崎房貝塚のように、直径五~六メートル程度の小貝塚が点在するというのが一般的である。中期から後期になると貝塚は大型化し、直径一〇〇~二〇〇メートル程の環状や馬蹄形のものができるようになる。そして土器や魚介類や動物の骨などが質量ともに豊富になってくる。このような貝塚は、茨城県では当時の海岸線である霞ヶ浦周辺に多く、取手市(中妻貝塚)、利根町(北方貝塚)などにも形成される。しかし、大型で環状や馬蹄形のものに限らなければ、石下町周辺でも水海道市金土貝塚や豊里町田倉貝塚などのような貝塚がつくられる。晩期になると、気候がさらに寒くなって貝類の生態系が変化し、捕獲が困難になってしまう。貝塚としては小規模な貝層が築かれるのみとなり、その数も減少し、消滅してしまう。
 貝塚からは、当時の食料や道具であった貝類、魚骨、獣骨類、骨角器、貝製品、土器、石器、人骨などが出土する。貝塚の貝類には多くのカルシウム分が含まれているため、土中では遺存しないような動物や、魚類の骨や、貝殻などが残るのである。これらの遺物の中には貝塚でしか発見されないものもあり、当時の食生活を知るうえで貴重な資料となる。特に貝類や魚・獣骨類は、縄文人の捕獲していた動物の種類がわかるだけではなく、その動物の生態系から当時の環境復元までを可能にしてくれる。
 また人骨が貝塚から出土することは、墓地であった場合が多い。そのような際は、他の動物骨のように単純に廃棄されるのではなく、死者を埋めるために一~一・五メートルほどの土坑を掘り、ていねいに足を曲げた状態で葬った。ある人物には貝輪を添えることもあった。この頃からすでに、死者に対する畏敬の念が芽ばえ始めたといえよう。
 しかし、こうした遺体をていねいに埋葬する習慣に対して、わずかではあるが、人骨が意図的に削られたり、破砕されて検出されたりすることがある。これは信仰上の理由からなのか、モースが指摘するような「食人」の習慣によるものなのかは不明で、その解明は今後の研究に期待するほかない。
 土器は、器形からでは尖底の深鉢が一般的であるが、早期末葉頃になると土器の胎土内に多量の植物繊維を混入する繊維土器と呼ばれるものが登場する。尖底土器は、この時期に最も多く存在する器形であるが、土器の底部が尖っているために付けられた名称で、平坦な地面に置いて使用することは不可能でその使用方法については不明である。 土器の文様は、縄を棒状のものに巻きつけて土器の表面をころがしてつける撚糸文(よりいともん)から、次に先の尖った工具で土器に線を描く沈線文そしてアナダラ属の貝殻の背面を土器に押しあて引っ張ってつける条痕文などが主流であった。
 また、新たな狩猟方法として、早期後半になると、台地斜面や丘陵一帯に陥穴が多数設けられるようになる。なお、詳細については、第三節で述べることにする。
 

Ⅱ-6図 前期の土器(鴻野山貝塚出土 関山Ⅰ式)