文化の隆盛期(中期)

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縄文時代を通じて、最も遺跡が大規模化した時期で、日本全国で馬蹄形もしくは環状の集落(貝塚)が形成された。
土器の文様は、大胆かつ華麗なものに変化してゆく。器形もキャリパー形といって、口縁部がひろがり胴部のくびれたような形が多くなり、高さが五〇センチメートルを越えるような大形のものまでつくられるようになる。土器は、ほとんど縄文を施さずに粘土紐を貼り付け、派手な把手をつけたものから、把手などが小型化して、沈線や磨消縄文などが施されるものが多くつくられた。
 中期の遺跡は、関東地方では至るところで確認されているが、石下町も例外ではなく、全時代を通じて最も多くを数える。
 

Ⅱ-7図 中期の土器(町内出土加曾利EⅡ式)

 この時期は大規模な集落が形成され、人口の増加が予想されるが、そのためにはその人口を支える大量の食料が必要になってくる。ところが、従来からの狩猟具である石鏃は減少し、短冊型の打製石斧や磨石・石皿類が急増する傾向が、関東や中部山岳地方で顕著になる。そのことから動物性食料より植物性食料への依存度が高まり、あるいは焼畑農耕的なものが存在した、とする藤森栄一らの見解(『縄文農耕』)もある。打製石斧によって栽培した球根類や自然薯などを掘りおこし、磨石や石皿などを用いてすりおろして食したのであろうか。