Ⅱ-8図 後期の土器(町内出土安行1式脚部欠損)
土器は薄手で堅い焼きとなり、磨消縄文を施したものが中心となる。縄文原体も細いものが用いられるため、文様も繊細になり、また磨消部は黒光りするほど磨かれた。
しかし、すべての土器がていねいに磨かれたわけではなく、このように製作された「精製土器」と、縄文や条線のみが施されるか無文で粗雑なつくりの「粗製土器」とに分化するようになる。前者はすまいの装飾を兼ねた貯蔵用として大切に扱われ、後者は単なる消耗品として、煮沸などに用いられたものであろう。
またこの時期には、粗製土器から派生して製塩を目的とする土器も発明される。茨城や千葉の貝塚からは、厚さ五ミリメートル内外で、無文の粗雑なつくりの製塩土器がかなり発見される。さらに、稲敷郡桜川村に所在する広畑貝塚や前浦遺跡では、大量の灰や焼土とともに製塩土器が層状に堆積している状態で発掘されたが、これなどは製塩遺構の存在を証明するものといえよう。
また、この時期は小海進がおこり、霞ケ浦周辺には大規模な貝塚が形成される。これらの貝塚から認められる夥しい量の魚介類の消費は、海岸周辺に住んだ人々の食料となるばかりでなく、かなりの量が干物に加工され、塩とともに内陸部の人々との交易に利用されたとする考えがある。残念ながらこれらは有機物であるために、遺跡から発見されることは全く無く、証明は困難である。
しかし、交易の結果もたらされたと思われる黒曜石は、多くの遺跡から発見されている。これらは産地が限定できるために、縄文人の交易範囲を想定するには貴重な資料となるが、特に長野県和田峠産のものは、かなり関東地方に運ばれている。この黒曜石は、加工し易く硬いために、石鏃の素材とされることが多かった。石材に乏しい関東の人々にとっては、大変貴重な物資であり、それに対して塩分を獲得することが容易でなかった内陸の人々にとって、貝や魚の干物や塩はこの上なく重要な食料であったと思われる。これらが交易品として利用されたことは、ほぼまちがいないであろう。
しかし、このような大規模な生業活動が行なわれる一方で、後期も後半期にはいると、呪術的な目的に使用されたと推定される石棒、耳飾、土偶(どぐう)、土版などが増大してくる。これは、呪術に頼らなければならないような社会的な不安があらわれてきたことへの反映であろうか。