集落の変遷

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「人間は社会的な動物である」といわれるように、当時の集団は家族を単位とするが、単独で存在したのではなく、密接な関係をもつ単位集団が集まり集落を形成していたものと考えられる。
 縄文時代における人々の集落は、各時期によりかなり違った様想をみせるが、いずれの場合も共通していえることは、水の得やすい場所に立地していることである。水は人間にとっても他の動物にとっても不可欠なものである。台地や山麓の湧水地、湖沼や河川流域など水が得やすい場所に生活していたのである。また、このような場所は、カニ、エビ、小魚など小動物が棲息し、これらを餌とする動物や鳥類などもよく集まり、当時の人々の狩猟の場にも適していたからである。このような場所に人々は集落を営むようになったのである。
 集落の変遷について考えてみると、早期末頃までは丘陵の頂部や台地縁辺部に小規模な集落が形成される。住居にはそれほど規則性は認められないようである。町内では早期の住居跡は確認されていないので北相馬郡利根町の花輪台貝塚から発見された住居跡をみると二~三軒の小規模な家族的な集団で構成していると考えられる。竪穴住居跡の平面形は方形のものが多く、住居内には炉が認められず、屋外に炉穴がみられるようである。町内では、三か所ほどの遺跡から早期の土器片が検出されているので小集落の存在が推定される。
 前期の集落は早期と同様な立地をみせるがやや台地の平坦部に形成されるようである。早期末から前期初頭にかけては、地球全体がやや暖かくなり海面が少しずつ上昇し内陸部へも海水が浸入する「海進」という現象が現われ、町内でも鴻野山貝塚や梁戸貝塚などが形成される。さらに奥地の古河市城地貝塚、栃木県藤岡貝塚なども形成される。
 

Ⅱ-10図 縄文時代住居の変遷

 このような環境の中で集落での住居群はやや増加し、なかには環状に配置されるものや中央に広場を有するものもみられるようになる。住居の平面形は、方形・長方形が基本であるがやがて楕円形ないし円形に変化するのがみられる。屋内に炉が設けられるようになる。水海道市大生郷遺跡では十軒の住居跡が発掘調査により検出されている。平面形はさまざまであるが、壁柱穴をもつ円形プランの住居跡も認められ、炉も確認されている。検出された一〇軒の住居跡の内、三軒が接近しており二期に分かれるものと考えられこの集落の規模はそれほど大きなものではないと考えられる。町内では古くから知られた遺跡に鴻野山貝塚がある。昭和六十年に発掘調査がなされ一軒の住居跡が貝塚下に確認されている。
 

Ⅱ-11図 水海道市大生郷遺跡(茨城県教育財団提供)

 中期になるとやや安定した時期となり、集落の規模も大きくなる。住居は、平面形も円形が多くなり、柱穴の配置もしっかりする。炉は地床炉・石囲炉・石組炉・土器埋設炉などがみられる。前期後半から現在の気候に近づくにつれ海進もおさまり、やがて海岸線がしだいに後退する「海退」という現象が起こる。県下でもこの時期の集落の検出例が最も多く認められ、ピークに達する時期である。
 後期になっても中期の影響を受け大きな集落が認められる。住居の平面形は円形のものが多く、柱穴を壁ぎわに沿って配したものなどもみられる。炉は、地床炉がほとんどである。主な遺跡としては、取手市中妻貝塚のように直径一五〇メートルにもなる大規模な貝塚が形成されたり、竜ケ崎市廻り地A遺跡では、直径一二〇メートルほどの大規模な環状集落がみられる。このような大規模な遺跡は、中期末から認められ、その地域のベースキャンプ的なものとして存続していたのであろう。
 晩期になると、県下でも集落の発見例はかなり減少しているので、集落の構造はあまりよく把握されていないようである。確認されたものをみると、集落としての住居数は少なくなり、住居の平面形は方形的なものとなるようである。
 以上のように住居と集落の変遷についてその概略を述べてきたが、石下町の状況をみると、発掘調査において確認された住居跡は鴻野山貝塚の住居跡一軒のみであるが、縄文時代の遺物は、町内各地からかなり確認されている。これらの遺物からみると、前・中期を中心として集落は営まれたと考えられる。今後さらに周知された遺跡についての研究がなされれば、当地方における集落の在り方がより明確になるものと考えられる。
 

Ⅱ-12図 取手市中妻貝塚(『茨城県史料』より)