縄文人は自然とともに生活していたので、自然に対する知識や勘といったものには優れたものがあったと思われる。しかし、悪天候下においては、食料となる獲物や植物が減少し、飢餓に苦しむことも多かったであろう。
狩猟活動では、縄文時代になって石鏃が発見されることから、弓矢の存在が考えられる。従来は投槍しかなかったものが、弓矢の発明によって、より遠くへ正確に少ない労力で獲物をしとめることが可能になった。しかし、単に石鏃の破壊力だけでは大型獣を射止めることは不可能であるために、鏃にはトリカブトなどの猛毒が用いられたとする考え方もある。また、石槍は前時代より使用されたものと考えられるが、石材の得にくい関東地方ではあまり出土していない。
Ⅱ-13図 町内出土の石鏃
Ⅱ-14図 石鏃装着例
この石下町が立地する結城台地では、弓を用いて、シカ・イノシシ(鴻野山貝塚出土)などを捕えたのであろう。国生本屋敷(こっしょうもとやしき)遺跡をはじめ、町内からは黒曜石やチャート製の石鏃が多数発見されている。また、この頃からすでにイヌが家畜化されていたようであり、狩猟の際には重要な役割をになっていたものと思われる。
なお、貝塚などから発見される動物骨としては、イノシシ、シカが大半を占め、ほかにウサギ、タヌキ、キツネ、テン、サルなどが目立ち、鳥類では、アホウドリ、ガン、カモ、キジなどが多い。ただ、これらの獣骨には、幼獣や雌の骨が少なく、意識的に乱獲を避け、ある程度の資源保護を行なったものと考えられる。
また、そのほかの狩猟方法としては、罠の使用が考えられ、遺構として現在認めることのできるものは陥穴が代表的である。縄文時代の早期後葉になると、日本各地の台地斜面や丘陵一帯に数百基単位で設けられ、追い込み猟などを行なったものと考えられる。
これらは地面を長径一・五から二・五メートル、短径一から一・五メートル、深さ一・五から二・五メートルに掘り込み、その形は、底部のやや狭い楕円形である。底には動物を殺傷させるための逆茂木(さかもぎ)を立てたと思われる小穴が設けられている。