中・後・晩期の遺跡

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中期になると台地の奥地・北西部の地区の遺跡数はやや少なくなり、町の南側の現在の鬼怒川流域の向石下・篠山・蔵持・古間木地区に多く集中するようになる。
 これらは、早期末から前期にかけての海進により奥地に営まれた集落が、その後の環境等の変化による海退の現象によりやや南下したものかとも考えられよう。
 後期になると遺跡数は減少傾向を示している。台地南端の古間木地区を中心とするような集落の分布がみられる。
 晩期になるとさらに減少し、わずかに崎房地区の崎房遺跡から遺物が認められるくらいである。
 厳密には言及できないが、このような集落の傾向を示すものと考えられる。縄文遺跡の移りかわりは、鬼怒川と飯沼川とに挟まれた台地、鬼怒川やその支流等の侵蝕を受け複雑な小支谷を形成する台地を中心に、早期末から集落が営まれ前期そして中期を中心に展開され、その後減少していったと考えられる。なお、鬼怒川と小貝川とに挟まれた低地域には、縄文時代の集落は認められていないようである。
 

Ⅱ-24図 縄文時代の遺跡分布(中・後・晩期)