本貝塚は梁戸貝塚と呼称されることもある。昭和六十一年の踏査では、崎房貝塚は飯沼川を西に臨む台地端部に一地点、それからこの飯沼川より浸入する小支谷に南面して一地点の計二地点が存在することがわかった。前者は、現状では貝塚の大部分が土取りにより失なわれており、垂直に削平された台地端部には貝殻が幅二メートル、長さ一〇メートル位で散布するのみである。しかし、この土取りの行なわれた断面を観察すると、まばらにヤマトシジミを含む混貝土を覆土とする二軒の住居跡の存在が認められる。床面は(ハードローム面に構築され、覆土の厚さは四〇センチメートル程であった。覆土中の貝殻はヤマトシジミのみが均一に含まれている。ロームブロックも大きいものでは一〇センチメートル位のものをところどころに含み、自然堆積するには地層に疑問が感じられた。遺物はほとんどなく、組紐文の施された土器片が三片発見されたのみで、鴻野山の第Ⅰ貝塚よりやや遅れる関山Ⅱ式期のものと思われる。この貝塚も破壊される以前は、かなり遠方からでも認識できる程の貝層が見られたそうだが、現状ではその面影さえたどることはできない。この貝塚も鴻野山貝塚と同様に大山史前学研究所による実地踏査が行なわれた。報告文では、台地上に存在する面積の小さい三地点の純淡貝塚からなり、蓮田式土器を出土するとしている。第二の地点は、第Ⅰ貝塚よりやや離れているために、一連の貝塚とすべきかどうか問題ではあるが、今回の調査ではその解明までには至らなかった。貝塚の表面には、貝殻が直径一五メートル程の範囲で円形状に散布している。ボーリングステッキによる調査では、明確な貝層を確認することはできず、第Ⅰ貝塚と同様に貝殻の密度までは確認することは不可能かも知れない。すべてヤマトシジミしか検出できず、遺物も皆無であった。しかし、貝塚の規模から考えても第Ⅰ貝塚と類似するため、混貝土を除去すれば住居址の存在する可能性が高いのではないかと思われる。史前学研究所によれば、貝塚は三地点ということであったが、詳細な調査にもかかわらず、検出できなかったもう一つの地点に分布したという貝塚は、消滅してしまったものと思われる。