弥生文化の伝播

73 ~ 75 / 1133ページ
弥生文化は、水稲農耕がはじまり、青銅器や鉄器などの金属器の使用か開始されたことを特色とし、およそ紀元前三〇〇年から紀元後三〇〇年の間を弥生時代と呼んでいる。
 水稲農耕の伝播によって、人々の生活やその社会は、狩猟や漁撈などの自然物採集を基本とする縄文時代と比べて大きく変化し、発展していくことになった。弥生時代の人々は、水田を中心として定住生活をおくるようになり、人口はしだいに増加し、大きな村落を形成するようになっていった。人口の増加は、水田を拓く土地の占有をめぐって近隣の村落との対立・激闘が起こることもあった。また、生産力の向上によって収穫物の蓄積が可能になったことなどから、しだいに経済力の差が生まれ、階級的な社会が形成され、やがて「くに」と呼ばれるようなまとまりが生まれていった。「くに」はお互いに抗争や併合をくりかえしながら、より強い「くに」ができ、強力な支配者による統一国家へと成長していくのである。
 このような稲作農耕の東日本への伝播は、北九州の遠賀(おんが)川式土器の分布から、弥生時代前期には伊勢湾以西までで、それ以東の地域へは面としての広がりをみせることはなかったとされている。しかし、青森県垂柳遺跡から水田遺構が発見され、さらに同県松石橋遺跡・秋田県地蔵田B遺跡などから遠賀川式土器の系統のものが出土していることなどから、弥生時代前期に東日本へ稲作が伝播しなかったという考え方は否定されつつある。
 

Ⅲ-1図 弥生土器(女方式,佐藤ほか1978より)

 茨城県における弥生時代は、およそ紀元前一世紀頃の中期以降にはじまる。県内の初期弥生時代の遺跡としては、桜川村殿内遺跡、下館市女方(おさかた)遺跡、日立市大沼遺跡、大宮町小野天神前遺跡などがある。この時期の遺跡は、台地上に営まれた再葬墓だけに限られているのが特徴で、土器の文様は縄文式土器の伝統を強く残している。
 中期後半の遺跡としては、水戸市大塚新地遺跡、那珂湊市狢(むじな)遺跡、同柳沢遺跡、北茨城市足洗(あしあらい)遺跡などがあり、県北部に多く発見されている。これらの遺跡も前半期のものと同様に墓地であり、合口甕棺墓である。
 後期になると竜ケ崎市屋代A遺跡、石岡市外山(とやま)遺跡、水戸市大塚新地遺跡、大洗町髭釜(ひいがま)遺跡、同長峰遺跡、勝田市東中根遺跡など、遺跡数は増加する。これらの遺跡は、河川に沿った台地上に営まれた集落跡であるが、後期後半には沖積地の自然堤に進出している例もあり、稲作技術の進歩・定着したことが考えられる。しかし、現在のところ県内から弥生時代の水田跡は発見されていない。