国生本屋敷遺跡

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この遺跡は、南流する鬼怒川の右岸台地上の国生本屋敷に所在し、縄文時代から平安時代にわたる複合遺跡である。遺跡は標高二三メートルほどの南へ派生する舌状台地上にあり、現況は畑で、近年耕作土の天地返し等によって遺跡の破壊が進行している。遺物は、昭和六十一年七月から八月にかけて発掘調査を実施した際にトレンチ等から出土したもので、甕あるいは壺形土器の破片十数点である(Ⅲ-5図)。文様は、櫛描波状文を有するものが一点みられるほかは、いずれも縄文が施されているものである。これらは後期前半から終末期にかけて編年されるもので、住居跡などの遺構は確認されていないが、集落跡の存在が想定される。この遺跡をのこした人々は、台地の南から西側にかけて入り込む支谷の湿地を開いて水田とし、生活の基盤としていたものと考えられる。
 

Ⅲ-5図 国生本屋敷遺跡出土弥生土器

 国生本屋敷遺跡の集落の規模は明らかでないが、一般的な集落は数軒の住居からなる小規模なもので、なかには数十軒からなる大規模なものもみられる。住居の平面形は主に隅丸方形、隅丸長方形で、楕円形や円形のものもみられる。床面のほぼ中央部には炉が設けられている。住居の平均床面積は、二三~二五平方メートル程で、居住できる人数は四、五人が限度であったものとみられる。このことから、一般的な小規模の集落の人数は、二〇人前後であったものと推定される。