一方、農耕を主体とすることにより木製の農具類も多くみられるようになる。静岡県登呂遺跡などから出土している農耕具には、広鍬、丸鍬などの鍬類、長柄鋤、スコップなどの鋤類、田下駄、槌、杵などがある。
このような道具類の普及は、稲作農耕の発達をうながし、社会生活に大きな変化をもたらしていった。生活力が向上し収穫物の蓄積が可能になると、集落内に貧富の差や身分の別がしだいに生ずるようになった。さらに、大規模な治水や灌漑などはいくつかの集落の共同作業も必要となり、一つの水系を単位とした地域を統卒する首長が出現してくる。そして、弱小集団を従属させた有力な集団の首長を支配者とする集団の連合体=小国家が形成されてくる
Ⅲ-8図 弥生時代木製農具の変遷
(黒崎直「木製農耕具の性格と弥生社会の動向」より)
ところで、茨城県内における弥生時代の道具については、出土例が少なく断片的にしかわかっていないのが現状である。
中期の遺跡では、女方遺跡から石包丁、磨製石斧、小野天神前遺跡からアメリカ式石鏃の出土がみられる程度である。後期の遺跡でも、東中根遺跡からアメリカ式石鏃、北茨城市南中郷地内、岩瀬町磯部遺跡から石包丁が出土している程度で、利器としての石器は後期前半頃から消失していくようである。金属器は、髭釜遺跡から銅鏃、鉄鎌が出土しているだけであるが、後期以降はしだいに金属器が普及したものと思われる。しかし、西日本との落差は著しく、西日本から波及する新しい文化の受容が充分に行なわれたとはいいがたい。