弥生時代にはじめられた水稲耕作は、古墳時代に入ると農耕具の充実と相俟って飛躍的に増大した。
しかし、住居は必ずしも低地に移動した訳ではなく、台地端に発見されることが多い。
低地の生活が充分でなかったことを示しているといえよう。
石下地方は小貝川、鬼怒川、東仁連川等の河川に恵まれているため、河川に望む台地端からは当時の人々の用いた土師器や須恵器等が発見されている。
弥生時代に続いた古墳時代の土器は、赤焼の土師器(はじき)といわれる土器と、五世紀頃、朝鮮半島から伝えられた鼠色をした須恵器がある。
器型は共に特種なものを除いて同様であるが、須恵器は焼成度が高く、保水性にすぐれ精緻であったことから急速に普及した。
弥生時代の土器と異なる点は、土師器では器型が全国的に統一されたこと、初期の土器に刷毛目を残す他は無文化したこと、「ろくろ」が使われたことである。甑(こしき)が出現したのもこの時期である。
土器は「土師氏」らのような専門的職業集団によって製作され、全国に波及した。ハニワも土師氏等が製作した。陣屋には埴輪窯跡が発見されている。
土師器には五領(ごりょう)式土器、和泉(いづみ)式土器、鬼高(おにたか)式土器、真間(まま)式土器、国分式土器といった関東地方の編年がある。器型も生活様式の変化によって、皿、坏(つき)、高坏、埦(わん)、坩(かん)、壺、甕、瓶(へい)、〓(はそう)、甑等がある。
Ⅳ-10図 町域出土土師器(古墳時代前・中期)
Ⅳ-11図 町域出土土師器(古墳時代後期)
Ⅳ-12町域出土土師器実測図
須恵器は古い時期の窯跡が今のところ県内からは発見されていないので、関西地方から移入されたものと思われる。
土師器や須恵器の発見される台地は当然のことではあるが、それらの土器を使用した人々の生活の場であったから、住居跡も発見される。
古墳時代の住居は弥生時代と殆んど変りはないが、六世紀頃になると住居の壁の中央に煙出しを持つ竈(かまど)がつくられるようになったことであろう。ここにも古墳時代の生活の進歩がうかがえる。
住居は地下につくられた竪穴式住居と地上につくられた高床式の住居があった。国生では竪穴式住居が発見されている。当時の竪穴式住居は四角の「方形」の住居跡と、隅の丸い「隅丸(すみまる)方形」の住居があった。この住居は地表下の関東ローム層面に掘込まれてつくられている。「方形」の一辺は五~六メートル、ローム面からの深さ〇・四~五メートル(地表面からは一・四~五メートル)前後の大きさが普通であるが、中には一辺一〇メートルを越えるものもある。住居とすれば大家族向であるし、或いは集会場的(祭事場)住居であったかも知れない。
住居の内部は、四周の壁下に幅〇・一五メートル、深さ〇・一メートル前後の排水溝をめぐらし、床の中央に炉を設け、直径二〇センチメートル前後の柱を四本建て、貯蔵穴が掘られ、六世紀以降には北壁の中央に竈が設けられるようになった。屋根は茅葺で、入母屋式の屋根をもつものが多い。
このような住居は一ケ所に四~五棟から三〇棟近くつくられており、集団生活が行なわれていたことが知られる。血縁的またはより発達した地縁的共同体が営まれていたことをうかゞわせるのである。