東国における国制の成立を伝える史料は少ないが、『常陸国風土記』(日本古典文学大系『風土記』)に
古は、相模国足柄の岳坂より東の諸の県は、惣べて我姫の国と称ひき、是の当時、常陸と言はず、唯、新
治・筑波・茨城・那賀・久慈・多珂の国と称ひ、各、造・別を遣はして検校めしめき、其の後、難波の長
柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇(孝徳天皇)のみ世に至り、高向臣・中臣幡織連等を遣はして、坂より
東の国を惣領めしめき、時に、分れて八の国と為り、常陸の国、其の一に居れり、
とあって、孝徳朝に律令国制の成立があったことを伝えている。
下総国は、大同二年(八〇七)成立の『古語拾遺』によれば、「天富命、更に沃壌を求ぎて、阿波の斎部を分ちて東土に率て往かしめ、麻・穀を播し殖ゑしむ、好き麻の所生、故之を総国と謂ふ、古語、麻を之総と謂ふ、今上総・下総二国と為す、是也、」とその成立の事情が記されており、総の国の国名の由来を総(麻)にもとめている。
また、上総・下総の地名起源説話には、風土記逸文に、「下総上総は、総とは木の枝を謂。昔此国大なる楠を生す。長数百丈に及べり。時に帝之を怪み之を卜占し給ふに、大史奏して云、天下の大凶時也。因レ玆彼木を斬捨。南方に倒れぬ。上の枝を上総と云、下の枝を下総と云。」とあり、上総、下総の故事にふれている。
下総国の確実な初見史料は、『続日本紀』文武天皇二年九月甲子の条にみられる、「下総国大風、壊百姓廬舎」という記事である。また、上総国に関しては、藤原宮跡から出土した当時の地方行政区の実態を示す貴重な木簡で、「己亥年十月上狭国阿波評松里[ ]」と記されたものが今日では最古である。己亥は文武三年(六九九)で、上狭は上総の古い用例である。このように、上総・下総両国の成立は、大化改新後の七世紀後葉に求めることができると思われる。
Ⅴ-1図 律令時代の常総地方
下総国は、安是湖(霞ケ浦の一部)、衣川(鬼怒川)をもって北の常陸国との境とし、西は住田川、南は、千葉・印幡両郡と、山辺・武射郡との分水嶺となっている丘陵および栗山川をもって上総国と分けられている。地形的には、鬼怒川、住田川、太日川などの河川か南流し、また、椿海、印幡沼、手賀沼、菅生沼、鵠戸沼、釈迦沼、飯沼、山川沼など大小の湖沼が分布し、洪積台地と沖積低地が複雑に入り組んでいる。
国府は、『和名抄』によれば葛餝郡(現在の千葉県市川市国府台付近)におかれている。下総国は、上総国と共に大国に属していたので、守(長官)には従五位上に相当するものが任命され、以下、介(次官)、大掾(判官)、小掾(判官)、大目(主典)、小目(主典)、各一人、史生三人の計九人が配属された。
文献にみられる最も古い国司任命は、『続日本記』にある「大宝三年(七〇三)七月甲午、正五位上毛野朝臣男足為二下総守一。」という記事である。なお、奈良・平安時代における著名な国司としては、長岡遷都の提唱者として有名な藤原種継が、宝亀十一年(七八〇)三月より天応元年(七八一)五月まで下総守に任ぜられたほか、延暦四年(七八五)正月には坂上田村麻呂の父、坂上苅田麻呂が、弘仁十二年(八二一)正月には法制に通じ学者として令名のある清原夏野が、それぞれ下総守に任命されている。また、康保三年(九六六)正月には、『和名抄』の著者として有名な源順が下総権守に任ぜられている。