農民の集落と住居

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奈良・平安時代の人々の生活の場であった集落は、県内各地から発見されている。当時の集落立地は、古墳時代と同じように引き続いて台地上に求めているものが多い。集落には、官衙や寺院にかかわるものもみられるが、大部分は農耕にたずさわる人々の集落で、高燥で水便の地がえらばれたことはいうまでもないが、大きな条件の一つは、農耕の基盤となる水田耕作に適した場所が周辺に得られるところであった。
 集落を構成する主なものは住居であり、それに加えて倉庫や井戸等がある。これらについて、発掘調査で明らかにされた遺構を通して述べてみたい。
 当時の人々の住居は、古墳時代のものと同じ竪穴住居が一般的で、方形あるいは長方形の平面形を呈しているものが多い。地表面から関東ローム層まで掘り下げて床面とし、四周の壁を垂直に立て、地表面からは数十センチの深さをもっている。北壁あるいは東か西壁のいずれかの中央部にカマドを設け、煙道を外部に向けてうがっている。主柱穴は、四隅に四か所均等にうがたれているものを標準とするが、時代の下降と共にその存在が不明瞭になる場合が多い。規模は、一辺が四~五メートル程のものが一般的であるが、平安時代に入ると三~四メートルと小規模なものが多くなり、なかには三メートルに満たない例もある。内部は土間で、良く踏み固められているものが多い。『万葉集』巻五の貧窮問答歌に、「伏慮の 曲慮の内に 直土に 藁解き敷きて」とあるように、土間にわらやむしろを敷いてその上に起居していたようである。上部構造については推定の域を出ないが、茅などによって葺かれた寄棟か入母屋風の屋根であったとみられる。住居の平均的な床面積としては一五、六平方メートル(約五坪)程で、一人当りの必要面積を二・五平方メートルとすれば、住居の収容人員は六人位であったとみられる。これは、房戸の平均戸口七~九人に近い数値である。
 

Ⅴ-4図 国生本屋敷遺跡1号住居跡

 倉庫と考えられる建物は、掘立柱建物跡である。掘立柱建物は、土中に柱を立てるだけの穴を規則的に掘り込み、柱を埋めた建物である。建物の構造としては、内部が土間のままで板材による床をはらない建物(平地式)と、高床の建物で板ばりの床がつくられている建物(高床式)の二種類ある。このうち後者が一般に倉庫と考えられ、多くの場合は総柱の建物である。建物の規模は、三間×二間、三間×三間、四間×三間のものが多くみられる。
 このほかに発掘調査によって明らかにされているものとして、井戸、溝、工房および墓などがある。井戸は、水戸市大塚新地遺跡、総和町北新田A遺跡などから素掘りのものが、また桜村東岡遺跡からは木枠組みのものが発見されている。自然の湧水を利用することもあったであろうが、すでに井戸を掘る技術を知っていた。溝は、その目的、性格など不明な点が多いが、集落の内外を区画、分割することや用排水などの目的で設けられたものと考えられる。工房としては鉄製品を製作、修理する鍛冶工房などがある。墓跡としては、仏教伝来以降に火葬墓があり、火葬骨を埋納した蔵骨器の検出がある。また、土坑墓もあり、鹿の子C遺跡からは副葬品として土器類を伴った地下式土坑墓が発見されている。このように集落を構成するものには多くの遺構があり、一つの集落は数軒から数十軒の住居等によって構成されているが、その規模や、どの様な社会構成をしていたかは明確になっていない。
 奈良・平安時代の住居跡などからは、日常生活用具としての土器や鉄製品など多数の遺物が出土する。土器には素焼きの土師器や、窯を用いて高温で焼成した灰色で硬質の須恵器があるほか、平安時代に入ると釉薬をかけた灰釉陶器の使用もみられるようになる。これらの土師器、須恵器などの土器類を形から分類すると、土師器では杯、甕、甑、など、須恵器では杯、皿、盤、高盤、壺、甕、甑などがある。このうち甕、壺などは食物や水などの貯蔵用、杯、皿、盤、高杯などは食物を盛りつける供膳用であり、甑や土師器の甕などは煮炊きするためのものである。
 

Ⅴ-5図 県内出土鉄製品

 土器には、墨で文字が書かれている墨書土器がある。一般民衆が日常用の土器に文字を書きこむというのは、ようやく文字が普及してくる奈良時代以後の、特徴的な現象である。墨書土器は、集落跡からだけ出土しているのではなく、平城京・藤原京などの都城跡、寺院跡、国衙跡、郡家跡などから多数発見されている。墨書の内容は、
  (1) 役所や役職名
  (2) 地名
  (3) 人名・氏名
  (4) 施設名
  (5) 吉祥句
  (6) 寺院名
  (7) 落書
  (8) 物質名
  (9) 数量
などがあり、その内容は遺跡の性格によって特徴がみられる。このうち、(1)(4)(7)は国衙や郡家などの役所の跡から出土する場合が多く、(7)は寺院跡から出土している。これら以外の(2)(3)(5)(8)(9)は、とくに遺跡の種類によって限定できる傾向がみられないものもあるが、比較的集落跡から多く出土する墨書土器の内容である。また、集落跡からは一字あるいは二字で意味不明の墨書土器が多数出土する。これについては、一軒の竪穴住居、あるいは複数の竪穴住居などで、特定の文字を土器に墨書する。ある人間集団があったのではないかともいわれているが、まだ謎の部分が多い。このような墨書土器は、どの集落からも出土するわけではなく、時代的にも八世紀後半から九世紀にかけての出土例が圧倒的に多く、さらに、集落跡から出土する土器全体の量からすれば極わずかにすぎないが、集落跡から墨書土器が出土することは、当時の人々がどの程度読み書きができたのかという手がかりを与えてくれている。それはどのようなかたちで、またどの程度の階層まで文字が普及していたかは明らかでないが、少なくとも八世紀後半以降は、郡の役所の段階にとどまらず一般の農村集落に文字を読み書きする人々がいたことが明らかである。このことは、集落から硯が出土していることによっても確かめられている。
 鉄製品には、斧、槍鉋、刀子、釘などの木工具類、鋤鍬先、鎌などの農耕具などのほか、鏃、紡錘車および燧鉄などがみられ、鉄製品が一般に普及していたことがわかる。農民は、鉄製の農耕具を用いて、水田や畑地の開墾をさかんに行なったことであろう。これらの鉄製品は、集落跡から鞴の羽口や鉱滓が出土することから、集落内で鍛冶作業が行なわれ、鉄製品の製作や修理が行なわれていたものとみられる。また、鉄器の普及にともない、砥石も数多く出土している。なお、紡錘車は滑石など石製のものが多くみられる。