村落の性格

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町域の古代村落の多くは、台地縁辺や侵蝕谷の谷頭など水田耕作に適した低湿地付近に営まれていたことが明らかになった。しかし、一方で沖積地へも進出し、水と闘いながら自然堤防上に村落を営んだ人々がいたことも明らかになった。したがって、稲作を中心とした農耕生活を展開した農民の集落が大部分であったものとみられる。そうしたなかで、国生本屋敷遺跡のように官衙遺跡とみられるものや、郷ノ上遺跡、剣之峯遺跡のように寺院跡あるいは官衙遺跡とみられるものも存在する。このように町域には農民の集落を中心に豊富な遺跡が存在し、現在までに七二か所の集落跡が確認されている。このすべてが同時に存在していたものではなく、八世紀から一〇世紀頃にかけて営まれたものとみられる。一時期における集落数を明らかにするには、奈良・平安時代の土師器や須恵器の編年的分類を基礎として、集落の形成から廃絶までの時期を基本的に把握しなければならないのである。また、人口構成等を推測するには、何軒の住居が同時期に集落を構えていたのかを明らかにしていかなければならない。岡田郷の人口を知る手がかりは現在のところみあたらないが、養老五年(七二一)の下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍によれば、郷の総人口は一一九一人である。また、大嶋郷戸籍など現存する八世紀前半の戸籍の平均によって得られる一郷当り人口は一〇六八人であり、岡田郷内の人口も一〇〇〇人前後であったものと考えられる。
 このような集落の増大の背景には、住居跡内からしばしば出土する鉄製の鍬や鎌の普及によって、はじめて可能であったのである。奈良時代以降、東国においても「たたら」と呼ばれる製鉄遺跡が数多くみられ、町の北側にある八千代町の尾崎前山製鉄遺跡は、その代表的な遺跡である。尾崎前山遺跡からは三基の製鉄炉と、炉材粘土と思われる砂質粘土の堆積地、木炭置場と思われる木炭堆積坑、小割りの鉄滓と土器片が集中した作業場推定地など、一連の施設が傾斜地から発掘され、台地上からは鍛冶工房跡を含む工人の住居が四棟発掘されている。町域においても崎房、国生、蔵持、古間木台地から鉱滓が出土しており、製鉄遺跡、鍛冶関係遺跡が存在したものとみられる。
 また、国生および岡田地区は岡田郡の中心地と推定されており、官衙遺跡の可能性がある国生本屋敷遺跡、古代の瓦を出土する郷ノ上遺跡などは、郡衙や郡寺との関連で考えなければならないが、それらは今後の考古学的研究にゆだねたい。