九・十世紀の東国

129 ~ 130 / 1133ページ
十世紀の冒頭、延喜二年(九〇二)には国政改革上の基本方針数か条が太政官(だいじょうかん)から出された。「律(りつ)」や「令(りょう)」所定の法令に対してその追加法が臨機応変に太政官から出されること自体は通例であって、この年のそれも同様である。しかし、内容上見逃せない追加法であり、また単なる追加法ではなかった。寛平八年(八九六)四月よりこの年の三月にかけて出された一連の追加法(全て太政官符として出される)は、明らかに国政のゆきづまりを示すものであり、その打開を意図するものであった。要約的には、
 
  (ア)中央権勢者たちの自由な山野開発・厨(くりや)(=荘園)設定を停止させ、農民の農業生産条件(農地
    と労働意欲)を守る。
  (イ)絶えて久しい「班田(はんでん)」を励行する。
  (ウ)中央権勢者と地方有力農民が結託して、有力農民がその集積した田地等を権勢者に「寄進」したり、
    権勢者の政治的威信を行使して「閑地」「荒田」を一方的に占有したりする(荘園化)ことを禁ずる。
 
のような内容の官符である。この背後には、総じて国家財政の悪化があるわけで、一連の追加法はその改善策を如実に物語るものである。当時、全国的にみられた律令体制の弛緩はこの限りではないが、国家がその運営の糧とする税収入の基本策が後退しているという現実は特に注目すべきことである。
 このような法令が出される前提として、この時期の東国がはたして班田は励行されず、あるいは中央権勢者の進出が目立ったのかその証明は困難であるが、九世紀の治安の乱れは否応なく律令体制の動揺を示しているといえる。嘉祥元年(八四八)の上総国俘囚(ふしゅう)(国家に帰伏した蝦夷(えみし))丸子廻毛(つむじ)等の反乱、貞観十二年(八七〇)の武蔵国在住新羅(しらぎ)人による貢綿掠奪事件及び上総国俘囚の放火、掠奪、同十七年の下総・下野両国での俘囚の反乱、元慶二年(八七八)の出羽国俘囚の乱(元慶の乱)、同七年の上総国俘囚の乱、昌泰二年(八九九)の僦馬(しゅうま)の党(富豪農民の馬による官物掠奪行為)対策としての足柄・碓氷両関の設置というような一連の東国の騒擾こそ、寛平~延喜の国政改革の要因でないはずはなかった。特に「僦馬の党」の構成員として国家が批難した東国「富豪の輩」の背後に皮肉にも中央権勢者がいるという事実は、延喜の官符の内容とも合致して興味深い。
 このような九世紀東国の動揺と財政悪化による国制の弛緩は、唐王朝の滅亡(九〇七)、新羅国の衰亡(九三五滅亡)とともに東アジア世界の大きな転換と無縁ではなかった(『茨城県史中世編』参照)。古代律令体制の矛盾・崩壊の現れ方が東国では部内の騒擾という形をとったのである。全国的には財政基盤を確保せんとし、東国に対しては部内の鎮定が急務であった。