高望王の東下

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乱れた東国社会再建のため、国家がとった策は国司の部内支配の強化であり、同時に桓武平氏の東下であった。桓武天皇の曾孫の一人高望王が、寛平元年(八八九)平姓を賜わり上総国の介(すけ)に任官したとする所伝(『系図綜覧』所収「平氏系図」、『続群書類従』所収「常陸大掾伝記」参照、なお『尊卑分脈』所収「桓武平氏系図」には寛平元年の注記はない)は、九世紀の東国社会への国家的対応策の中で実現したと考えられる。
 この高望王の東下(任上総介)とかかわって伝えられる、寛平元年十二月十三日の「民部卿宗章朝臣」追罰の功労譚(「平家勘文録」「常陸大掾伝記」)がある。当時少なくともその名より王族の列に加わっていた彼であるが存外その行歴は明かではなく、この所伝からわずかに武的技量の保持者という映像が推測される程度である。
 上総国は常陸・上野二国とともに天長三年(八二六)以降、国守には親王を任官させる(太守)ことを例とする親王任国であったが、高望王の着任に際しては平姓を与えて次官の介への任官をさせた点に特色がある。上総太守高望王ではなく上総介平朝臣高望にこそ意味があった。太守は例外なく遥任(ようにん)(任地に赴かず在京すること)であり、高望王の上総国司への任用は国内の情勢により遥任では意味がなく、何としても任地への下向の要があった。高望王自身のもつ武的性格(技量)への期待が国策上に強く現われ、いわゆる王の臣籍降下の形をとって平朝臣高望の上総国の次官(介)への任官が実現したのである。
 混乱した東国へその鎮圧の任を負う形で、武的にすぐれた王族高望王が登用されたとしても、何故上総国司でなければならなかったのかは不明である。一連の上総国内の俘囚の乱鎮圧ともみられるが、子孫の鎮守府将軍への任官からは上総国に限定されず、そのもてる武的技量を発揮することが期待されたのであろう。
 

Ⅵ-1図 桓武平氏略系図

Ⅵ-1表 常総平氏任官所伝一覧
(○は人名のみ所載,-は人名不載)
高望(王)良望(国香)良兼良将(持)良孫(繇)良広良文良茂良正貞盛繁盛兼任将門
尊卑分脈上総介常陸大掾・鎮守府将軍下総介下総介・
鎮守府将軍
上総介・
鎮守府将軍
常陸少掾下野介陸奥守・鎮守府将軍陸奥守・
武蔵権守
下野守
尊卑分脈脱漏上総介・
常陸大掾
常陸大掾・鎮守府将軍下総介・
陸奥大掾
鎮守府将軍上総介・
鎮守府将軍
常陸少掾下野介左馬助・
武蔵守左ヱ門大尉・
常陸介・陸奥守・
鎮守府将軍
陸奥守下野守
常陸大掾伝記上総介常陸大掾・鎮守府将軍陸奥守
常陸大掾系図甲上総介・常陸大掾・
鎮守府将軍
陸奥守
常陸大掾系図乙常陸大掾・鎮守府将軍陸奥府・鎮守府将軍陸奥守・
鎮守府将軍
石川系図常陸大掾常陸大掾
北条系図
伊勢系図上総介常陸大掾・鎮守府将軍常陸掾・鎮守府将軍
勢州系図上総介常陸大掾陸奥守・鎮守府将軍
伊勢系図別本陸奥守・鎮守府将軍
千葉系図上総介常陸大掾・鎮守府将軍上総守陸奥守・
鎮守府将軍
相馬系図甲上総介常陸大掾・陸奥守・
鎮守府将軍
下総介陸奥守・
鎮守府将軍
相馬系図乙上総守常陸大掾・
鎮守府将軍
上総介
相馬之系図上総介鎮守府将軍上総介上総介・
鎮守府将軍
鎮守府将軍
桓武平氏系図上総介常陸大掾・鎮守府(将軍)上総介鎮守府将軍鎮守府将軍右馬助・征夷大将軍
将門記上総介下総介鎮守府将軍陸奥将軍掾・常陸大掾蔭子
和漢合図抜萃常陸大掾常陸大禄・右馬助
貞信公記抄
歴代皇紀
本朝世紀
扶桑略記鎮守府将軍常陸掾・右馬助
日本紀略常陸掾
今昔物語下総介鎮守府将軍左馬允・丹波守
小右記
左経記


 
 宗章朝臣(史実的にはその存在は不明)の謀叛(律の規定では天皇を殺し、あるいはその位を奪うこと)を未然に防止し追罰を加えたという程の高望王の姿は、弛緩した律令社会の中央政局内では確かに特異な評価を得た筈である。六衛府や検非違使庁などの京内治安維持機構以上に優れて評価された武的技量保持者を京外、特に騒擾の渦中にある東国鎮撫に任用するという方策は自然である。
 手始めに、仮りに上総介へ登用し、その効果を見定めつつ、この氏族の手腕を東国部内鎮圧に用いるという国家的・軍事的意図が推測される。これが高望王の東国下向の背景として考えられることである。とすれば、高望王及びその子孫に代表される桓武平氏流氏族の東国での展開はかなり重要な歴史的意味をもっていたといえよう。寛平元年の賜姓任官直後に、高望(王)は子息等を伴って任地上総国へ下向したと思われるが、その経緯は全く不明である。