高望には八人の男子がいた(『尊卑分脈』)。このうち、良望(後に国香と改名)は常陸大掾・鎮守府将軍、良兼は下総介、良将(持)は鎮守府将軍、良孫は上総介・鎮守府将軍、良持は下総介、良茂は常陸少掾を歴任したという。あくまでも系図的表現の枠内での所伝であるが、この子息等は常陸・下総・上総三国の国司に任官しているとともに鎮守府将軍にも就任している。三国国司への任官の在り方から彼等を仮りに「常総平氏」と呼ぶ。そして「任鎮守府将軍」の例からは、この子息たちもまた高望以来の武的技量を継受して、氏族の社会的(国家的)評価を定着させたことを確認させる。
常総平氏とは武門の家である。高望によって志向された東国鎮圧の国家的要請は、鎮守府(陸奥国多賀城、胆沢城に置かれた蝦夷鎮圧の拠点)長官への任官という大役負担にも転じたが、その徴兵には国司任官という基本的公権も必要であった。常総平氏は、この氏族が本来保持している武的技量を背景にして国司となり、さらに鎮守府将軍として陸奥国経営にも関与したわけで、この時期(一〇世紀)の地方に生育しつつあった「兵(つわもの)」に与えた影響は大きかった。つまり、国内農民の徴兵による伝統的征夷策もこの頃には変質して、むしろ「兵」と呼ばれた武的職能保持者による参戦が目立ってきた。平時には営農、非常時には兵士としてかなりの戦功を逐げる「兵」たちが、将軍の指揮下で行動するという図式は、古代社会ではみられなかった。常総平氏のような氏族が「兵」を生育したわけではないが、この氏族による国内統治、そして将軍としての陸奥経営は、国内に居住するかかる「兵」の再編成の上で、新たな局面を生み出したといえる。この「兵」の再編成こそ「武士団」の成立に他ならず、常総平氏の実態は武士団の統率者(棟梁)なのであり、兵の中の兵的存在であった。
この氏族の一員に平将門がおり、将門をめぐる一族及び他氏族間の抗争の中に、より興味深いこの時期の東国の実状が見られるのである。いわゆる「将門の乱」は、平高望の子孫たちの動向を示すのみでなく、律令社会から武家社会へ移行する際の極めて重要な因子である「武士団」の組織化の過程を如実に語っているのである。