当地方の歴史上の人物でこの平将門ほど著名な者はいない。町内国生(こっしょう)生まれの近代の文人長塚節にも劣らない存在として親しまれている昨今である。しかし、長塚節の履歴が正確であることに比して、将門のそれは余りにも茫漠としている。両者の間の存世時の格差はおよそ一〇〇〇年の隔りをもっている。にも拘らずその名ばかりか、行動の一部までも知られている将門の存在は、やはり特異であり驚くばかりである。このことは第四節でも言及するが、必ずしも町内に居住した人々の伝承にのみよるものではなく、将門の行動が与えた後世の日本民族全体の、忘れ得ぬ歴史的事件としての認識の所為である。
ところで、この将門の生年・出生地は皆目不明であり、父母の名すらわからない。乱の顚末を記した『将門記』(現在通行している平安期の写本真福寺本及び楊守敬氏旧蔵片倉本)でさえも冒頭部分の欠落のため将門の出自には答えてくれない。抄本の一と思われる『将門略記』(名古屋蓬左文庫所蔵本)には「その父は陸奥鎮守府将軍平朝臣良持なり」とあり、他に『扶桑略記』『今昔物語』『帝王編年記』などが同様である。一方『尊卑分脈』などの諸系図及び『吾妻鏡』などは「良将」を将門の父とする点、微妙に差異をみせている。桓武天皇曾孫高望王(平高望)の孫という位置は共通しているが、その父の名は一定していないのである。母については一説に「県犬養春枝女(あがたいぬかいのはるえのむすめ)」(下総国の古代氏族か)とするものもあるが定説ではない。将門の祖父高望の東下を前述のように寛平元年(八八九)と考え、この時高望は未婚の子息(将門の父の兄弟)を伴って上総国へ入部したとするならば、その後子息等の結婚に伴って孫たちが東国(常総)の各所で生誕したとも考えられる。将門もこの孫の一人であった。そして将門の父及び伯・叔父たちは前節で述べたように、国司や鎮守府将軍に任官している。将門の一族は律令制度下の役人を輩出した、いわゆる地方軍事貴族なのである。このような族的環境の中で生育した将門であり、一族の他の誰よりも活発な人生を送り、ついには某人(その立場は今以て不明)をしてその一代記を書かしめた程の存在ではあったが、彼の履歴はあまりにも謎が多い。このような見方をする限り、平将門は決して我々に身近な存在ではない。少なくとも歴史学的には、一〇〇〇年という歳月の彼方のあまりにもかすかな存在である。