女論をめぐり、近年では改めて将門を含む一族と、常陸居住の源・藤両氏との族縁が注目されている(『八千代町史』)。女論を転じて一族間の土地領有、相続争いとみる見方も根強いが、当時の婚姻形態に基いて女論を見直す時、『将門記』から読みとれる左記の関係は重要である(Ⅵ-5図)。
『将門記』中に常陸大掾歴任者として登場する源護(みなもとのまもる)の女子四人は、平氏族の国香、貞盛父子及び良兼、良正の妻であり、常陸介藤原維幾は平高望の女婿、そして良兼の女子が将門の妻である。この当時の婚姻は女子の許への入り婿婚(招婿婚)が特に貴族社会の通例であり、その亜族である常総に根付いた源・平・藤氏間でもみられたはずである。平氏に先行して常陸に根を張った源氏族には、平氏族の男子を入り婿として迎える財力は十分に用意されていた。四人の入り婿に対してそれぞれに所領を付与して筑波、真壁、新治三郡にまたがる地域に住まわせたのである。この限りでは女論の生ずる因子はない。『将門記』の冒頭部分(『将門略記』による)は明らかに良兼と将門の間に「女論」があったとするので、前掲系図の如く良兼の娘が将門の妻となることに女論の真相があったといえる(『八千代町史』)。すなわちこの結婚は良兼の許容せざるものであり、将門は入り婿とならず、娘が将門の許へ走った形の婚姻であるという。鎮守府将軍の子として、かつ前述のような実像が想定される将門が入り婿とならなかったことを必ずしも妥当と言いきれる理由はない。しかし、現実に北下総の地に複数の営所及び宿を経営した有力者将門の立場は他の一族以上に牧のあるこの地で在地的志向を是とする要因があったのであろうか。今は不明である。
この「女論」の結末がどうなったのかわからない。現存『将門記』は五年後の承平五年(九三五)二月の合戦から以後の展開を描いている(詳細な乱の経緯については『将門記』本文に委ねたいが、今日では容易に刊本が入手できる。また、一九八七年五月刊行の『週刊朝日百科日本の歴史59号』―承平・天慶の乱と都―は大胆に乱の背景を扱った好著である)。
Ⅵ-5図 源,平,藤氏関係図
この合戦は、平真樹なる人物(赤城説では真壁郡大国玉の土豪)に語られて、真樹の敵対者平国香・源護を将門が攻めたという(『歴代皇紀』<一三~一五世紀の間に成立した年代記>所引『将門合戦状』)。勝利は将門側にもたらされ、将門の伯父にして、族長的立場にもあった平国香が殺され、源護の子息扶・隆・繁が戦死した。『将門記』はこの時の惨状を
その四日を以て、野本・石田・大串・取木等の宅より始めて、与力の人々の小宅に至るまで皆悉く焼き
巡(めぐ)る。……火を遁れ出づる者は矢に驚きて還り、火中に入りて叫喚す。……千年の貯、一時の炎に
伴へり。また筑波・真壁・新治三ケ郡の伴類の舎宅五百余家、員の如く焼き掃ふ。
と叙述する。野本(のもと)(明野町赤浜及び向上野、寺上野一帯か)、大串(おおくし)(下妻市大串か)、取木(とりき)(大和村本木か)は源護の経営下にあり、石田(いしだ)(明野町東石田か)は「石田庄」ともいわれる平国香の営所所在の地である。まさに筑波、真壁、新治三か郡内に点在する諸所である。与力(よりき)(護・国香の従者、従類ともいう)の小宅を焼き、伴類(戦時に動員される農民)の舎宅五〇〇軒程を焼き尽したという。この時期の戦闘が、敵の中心人物を殺すとともに領有地内を焦土と化すことに主力が注がれたことを物語っている。いわゆる焦土戦術である。乱の展開の中でみられる合戦にはこの焦土戦術がつきまとっているのは特に注意したい。そして決して敵地を征服することはないのである。
この合戦の報を在京の身で得た国香の子息貞盛は急ぎ帰国するが、将門と和を結び親父の仇を討つ気配はない。この年十月二十一日、将門は叔父平良正(高望の妾腹の子)の襲撃を受け、常陸国新治郡川曲村(八千代町川西地区か)で良正を敗走せしめた。この直後良正は兄良兼の出馬を要請して良兼はこれを受諾している。十二月二十九日に至り、子息三人を失った源護の告状に基づき、原告源護、被告平将門及び平真樹を召喚する太政官符が発せられた(現地への到来は翌年九月七日)。この間承平六年(九三六)六月二十七日、常陸国筑波郡内水守営所(現つくば市水守)には、平良兼、同良正、同貞盛が集結して将門追討の軍議を行なった。良兼は消極的な貞盛を戒め、「兵」としての正道を説くのであった。この三者はいずれも源護の娘の入り婿であり、原告に加勢して将門を討つべき宿命を負った者同志である。一族間の抗争はかくして本格化していくのである。共謀の結果、良兼勢は入り婿の意地にかけて、すでに下野国へ出兵していた(六月二十六日)将門を討つべく営所を出た。下野国府(栃木市近郊)へ誘導された良兼勢は将門に翻弄され、かつ恩情によって遁走する結果となった。良兼勢の完全な敗退である。十月十七日、将門は到来した官符の旨に従って上京、検非違使庁の略間に堂々と陳弁して、罪過軽きを得て「兵の名を畿内に振ひ、面目を京中に施」して、帰国の途に着いた(承平七年<九三七>五月十一日)。
この年の八月、将門は良兼勢の再起攻勢を受けて常総国境の「子飼の渡し」(現つくば市吉沼と千代川村宗道間の小貝川渡河点)で対戦するが敗走、下総国内になだれ込んだ良兼勢は「豊田郡栗栖院常羽御厩」及び百姓舎宅を焼き払う(前述の通り、将門にとって最重要拠点への攻撃となった)。この後、同月中に将門は「同郡大方郷堀越の渡し」(八千代町仁江戸より常陸への渡河点か。片倉本『将門記』には「堀津」とあり、仁江戸の小字に「法戸(ほっと)」がある)の対戦で敗れ辛島郡(猿島郡)内の湿地帯に匿れるが良兼の上総への引き上げの途次、広河の江(飯沼)で妻子を捕えられた。妻(良兼の娘)は間もなく将門の許へ戻る。そこで将門は急いで常陸国真壁郡へ発向し、筑波山麓「服織(はとり)の宿」(真壁町羽鳥(はとり)にあった平良兼の営所の一)を攻める(九月十九日)。上総より戻っていた良兼は伴類とともに筑波山中「弓袋(ゆぶくろ)の山」(湯袋峠)に逃れ勝敗は決していないが、宿近辺は将門方の兵士によって焼かれている。
この間、将門は良兼父子及び源護等を京都へ訴える。理由は恐らく兵部省管轄下の官厩、つまり、常羽御厩襲撃であろうが、追討の官符発給後も諸国司は動かなかった。承平七年(九三七)も師走に入る頃、良兼は将門の営所の一つ「石井の営所」攻撃を企てる。まず、故国香の所領「石田庄」(明野町東石田)内の田屋に通う豊田郡岡崎村(八千代町尾崎)在住の農民で、将門の「駈使」でもある丈部子春丸を買収して石井の営所内の探索を行なわせた(前述)。その報告を得るや石井攻撃のため良兼勢は「結城郡法城寺」(結城寺か)辺りに出向くが将門の急襲に会って敗走、やがて子春丸も将門の命で殺された。
Ⅵ-6図 水守営所遠景(つくば市水守)
承平八年(九三八、五月に天慶と改元)二月、平貞盛は形勢の不利を悟り上京を企画、将門に追撃されながらも信濃国経由で東山道を上京する。この間、将門は武蔵国庁内の紛争に介入していく。このことは乱の展開としては、一族内紛の域をはずれて第二の局面に入ることになる。
天慶二年(九三九)三月二十五日、時の太政大臣藤原忠平(少・青年時の将門が家司として仕えた私君という)は、坂東の騒擾を問うために御教書(みぎょうしょ)を発し、中宮少進多治真人助真を派遣した。将門はこの事態を無実主張のままきり抜け、六月上旬の良兼死去の報に接す。そして武蔵国庁内紛問題をひきずったまま、権守興世王を与力として加勢して止まない。この将門の許へ常陸より藤原玄明(はるあき)が逃亡してくる。玄明は常陸国の住人で「国の乱人」という。介藤原維幾(これちか)の行政指導に背き、追捕寸前の身であった。
Ⅵ-7図 鎌輪跡(千代川村鎌庭)
「侘人を済(すく)ひて気を述べ、便なき者を顧みて力を託」す将門は、玄明とその妻子を庇護し、あまつさえ維幾誅戮を約するのであった。この年十一月二十一日、将門勢は常陸へ発向し、介維幾等を捕虜とし印鎰(いんやく)(国印と国倉の鍵)を押領して三〇〇余戸を焼き払った後に、二十九日帰途につき、「豊田郡鎌輪の宿」手代川村鎌庭)へ入った。武蔵権守興世王の「一国を討つと雖も公の責め軽からじ、同じくは坂東を虜掠して、暫く気色を聞かん」との進言に気を負った将門は、十二月十一日に下野国府を襲撃して印鎰を押収、十五日には上野国府へと進駐の歩を進める。十九日には介藤原尚範(常陸同様実質上の長官)を追放しやはり印鎰を奪う。そして将門は決定的な行為としての「除目(じもく)」を行ない、常陸・下野・上野の新国司を任命するのであった。除目の主体は天皇であるが将門はそれを行なったのである。
『将門記』中最大の盛り上りを見せる場面が次の将門の皇位就任の条である。すなわち、除目発令直後、同座せる「一昌伎」(遊女か)の口より、八幡大菩薩の託宣が宣られ、皇位授与が伝えられ、将門は自ら「新皇」と称したという(京都の「本天皇」に対応する)。
Ⅵ-8図 国王神社と将門木像(岩井市 五津忠男氏提供)
この機に当り、将門は京都の太政大臣藤原忠平宛に書状を発し、心中の感懐を述べてもいる(書状が『将門記』作者の創作か否か決着をみない)。やがて坂東諸国司の除目、王城建設の構想、官人の選定(暦博士不在)などが行なわれたという。正に新皇を頂点とした王国の成立であり、京都の本天皇とともに国家を二分したかの形勢である。乱はここで第三の局面に入った感が深い。この時期の中央の記録には、西海に起った藤原純友の乱への対応にも忙しい朝廷政局の動きがみられる。この東西の兵乱に際して、忠平を軸とする中央政局のとった、老獪な鎮撫策が注目されている(『八千代町史』)。
天慶三年(九四〇)一月初旬、東国の騒擾を体験に照して報告した武蔵介源経基は従五位下に叙せられ、かつ東海・東山両道諸国に対して勲功には賞を以って遇する旨の官符が下ったという。本格的な中央政局の対東国鎮撫策の高揚であり、諸社寺への調伏祈禱・奉幣も盛んである。新皇将門は一月中旬には再度常陸へ発向し、下旬には将門の兵士が「吉田郡蒜間(ひるま)の江」(涸沼)において平貞盛及び源扶の妻を虜にしたが放免する。そして、一月十八日には参議藤原忠文が征東大将軍に補任され(『日本紀略』『公卿補任』『貞信公記抄』など)、征東策つまり将門討伐は明白となっていった。
かかる中央の征東策とは別に、帰国した平貞盛、下野国押領使藤原秀郷等は密かに将門討伐を謀り四〇〇〇余人の兵を整えて下総へ急襲した。二月一日、先陣をきった将門方の将士等は敗北し、将門方の陣所「川口村」(八千代町水口)を襲った。続いて二月十三日には広江(飯沼)に隠れた将門を襲い、将門は逃れて「辛島郡の北山」(岩井市内)に陣取翌十四日、自ら馬上の人となった将門は順風を失って風下に立ち、鏑矢に当って射殺されている。「女論」発生より一〇年、国香攻略以来五年を経た将門の反抗はかくして終止符を打ったのである。
四月二十五日、将門の首級は京に送付され、この間、追討功労者の褒賞、残党の追捕があったというが、いずれも後日譚として増幅され、日本民族の伝承の世界に語り継がれることとなった。
九三七>一三~一五世紀の間に成立した年代記>