乱の経緯でみる限り、特に石下町域が乱の舞台となった印象は希薄だが、「大結牧」の所在立地からも将門と無縁の地域ではあり得ない。ただ北下総の各地に営所・宿を構えてその有勢ぶりを発揮した将門の実像は、「牧司」のみにとどまらずいわゆる「在地領主」の典型としてこの地方に根を張っていたといえよう。従って、石下町域にのみ拠点を置いて北下総の支配者となったとの理解は許されず、それは将門の虚像である。又、この乱後、この地域がどの様に行政的支配を移行させたのかを知る史料もない。しかし乱後の歴史を空洞化させてはならない。将門は敗死したが常総平氏族は健全である。その事を正当に評価することにより、乱自体が招来せしめた歴史の展開過程が把握できるのである。
常陸では貞盛の在地志向は不明だが、舎弟繁盛(青年時、右大臣九条師輔に奉仕)は国内有数の富裕人として成長している。寛和二年(九八七)、将門の乱の勲功に浴さないことを歎きつつ、老身ながら金泥大般若経六〇〇巻(一部)を白馬に積んで比叡山に運上している(『続左丞抄』所引寛和三年正月二十四日付太政官符、『茨城県史料古代編』所収)。子息維幹(系譜では貞盛の養子となった人物だが、養子というよりも、父繁盛とともに常陸平氏本宗の地位を得たとも考えられる)も若き頃は右大臣藤原実資に下僕として奉仕し、馬、絹を進献してやがて「五位」(従五位下か)を買い取って(『小右記』長保元年十二月条)「大夫」と呼ばれている(『宇治拾遺物語』巻三「伯母事」)。「平大夫」「水漏(守)の大夫」「多気の大夫」とも呼ばれる維幹の富裕ぶりは京より下向した国守への尨大な進物にもあらわれている。この維幹以後の子孫には、為幹―繁(重)幹―致幹―直幹―義幹の如く「幹」の通字を用いて常陸に居住していることから、この系統を常陸平氏と呼ぶ。一一世紀から一二世紀にかけて常陸平氏は国内に根強く派生し、武士団の形成に余念がない。その勢力伸張は、同族内に国家的反乱分子を有したとは思われない程にすさまじい。
一方、『将門記』には登場しないが、国香の舎弟の一人「五郎良文」は武蔵国に本拠を持ち(千代川村村岡との説もある)つつ下総国内でも勢力を扶植していった。そして前記平繁盛の比叡山への納経を、武蔵国で妨害した張本人こそ良文の子息忠頼、忠光であるように、この系統は常陸平氏との間に対立関係を生み出している。忠頼の子忠常(上総権介・下総介・武蔵国押領使)は後世反乱を起すが、その子孫からは下総国随一の豪族千葉氏を派生させ、同時に上総国では上総氏を成長させていく。
系譜を辿れば、限りなく平氏系武家の派生を把握できるし、常総平氏の枠を越えていわゆる坂東平氏の武士団の展開を跡付けることができる。常陸平氏の平致幹の舎弟政幹(石毛荒四郎)が、石下町域を含む下総国豊田郡に入部して豊田氏の始祖となるのも、乱後の旧将門領域に勢力を扶植したことになる。