平忠常の乱

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忠常は平良文の孫であり、所伝では下総権介・上総介・武蔵国押領使などといわれるところから、両総武にまたがって勢力を有した、国司クラスの巨大領主との感が深い。「下総国ニ平忠恒ト云兵有ケリ、私ノ勢力極テ大キニシテ、上総、下総ヲ皆我マヽニ進退シテ、公事ヲモ事ニモ不為ナリケリ」(『今昔物語』巻二五)という表現は決して誇大ではなく、将門をはるかに凌ぐ有勢者であったようである。従ってこの忠常の反乱は、将門の乱後の東国における最大の危機とも呼び得るものであり、将門の乱後、比較的順調に再編されつつあった常総武士団の存続に、試錬の機が到来したともいえる。
 万寿四年(一〇二七)十二月の藤原道長の死去を待つかのように、翌五年(長元元年)六月、下総権介平忠常(前上総介)は安房国衙を襲撃し国守を焼死せしめた。上総介も追放され、忠常の軍事行動は直ちに中央政府の追討の対象となった。この忠常の行動の背景もよくわからないが、将門の乱渦中の武蔵国庁内紛の如き在地豪族と、新任国司の対決であろうか(『八千代町史』)。
 この非常時に臨み、朝廷では検非違使平直方(平貞盛の曾孫)、中原成道を追討使に任命し、直方の父維時(上総介)、維時のいとこ正輔(安房守、常陸介維衡の子)等が援助することとなった。長元二年~三年(一〇二九~一〇三〇)にかけて貞盛流平氏を動員して良文流忠常を追討せんとする国策が展開した。そして戦局の早期打開を得べく長元三年の九月に、甲斐守源頼信(武蔵介源経基の孫)を主力とした追討命令を坂東諸国に出し、平直方を召還している。頼信の策謀によってか長元四年(一〇三一)四月、討伐以前に忠常等は降伏した。甲斐より京へ身柄護送の途中、忠常は美濃国で死去(病死)したという。
 『今昔物語』(巻二五)には「源頼信朝臣、責平忠恒語第九」があり、頼信とともに忠常を攻略した「左衛門大夫平惟基」のエピソードが伝えられている。頼信を常陸守としたり、この守が鹿島より下総国へ進軍する場面など特異な光景を設定してはいるが、守頼信の軍勢を一〇〇〇人勝る三〇〇〇騎を従えて出陣した惟基(平維幹)の姿は、彼の富裕ぶりを再々偲ばせて興味深い。
 さて忠常の乱の結末は存外あっけなくみえるが、将門の乱以来一〇〇年を越えない間に二度目の大乱を体験したこの地方の荒廃は等閑視できないという(『左経記』)。忠常の乱の具体的影響が石下町域を含む下総国内でどうであるのかは皆目不明であるが、将門の乱後の常総の歴史を見渡す場合、他岸の火事ではあり得ないであろう。殊に、この乱を機に再度常総に進出しようとした貞盛流平氏(いわゆる伊勢平氏の系統)の野望には注意したい。この後常陸平氏、良文流平氏はと広)に氏族の存続派生に隆盛をみるが、この世紀の後半における陸奥の内乱(前九年、後三年の役)に積極的に鎮撫の功を積んだ清和源氏の坂東入部(常陸佐竹氏はその好例)こそ、東国社会の中世的移行として大局視しなければならない現象である。その中で常陸平氏流豊田氏の成立は石下地方での一一世紀末一二世紀初頭での重要な動向である。