石下の将門伝承

154 ~ 157 / 1133ページ
平将門にまつわる伝承は多様な内容と形態をとりつつ、北は青森県から南は広島県に至る間に分布している(梶原正昭・矢代和夫著『将門伝説』一九七五年新読書社刊、日本教育文化協会編 『関東中心平将門故蹟写真資料集』一九七六年刊)。この他、地域社会にとらわれない文芸、芸能、記録(寺社縁起などを含む)をも考慮すると日本の平将門譚は莫大な量であろう。そして又、各地の将門関係所伝の個々の内容が、取るに足らぬものである場合も数多い。量と内容の豊かさは必ずしも比例せず、史実とは別個にかかる所伝を単に楽しむことも多い。今ここで個々の所伝の由来を尋ね、虚実を判別する暇はない。将門譚生成の特異さとその盛行きを再認識しつつ、町域内及び近傍の伝承に留意しておく。
 茨城、千葉、東京は中でも伝承の多い地域であり、東京都千代田区内の神田明神、首塚は特に有名である。県内では岩井市の国王神社をはじめとして県南西部に集中している。墓、寺、社、城館、戦場に分類される故蹟のうち、町域内には豊田館跡、香取大明神、供養板碑、国庁跡、桑原神社、馬場跡、馬場天満宮などが知られる。
 豊田館跡は町内向石下にあり、将門の父良将の北下総での拠点であり、将門兄弟も過した所といわれ、後世、常陸平氏流石毛氏(豊田氏)に利用され向石毛城とも称されたという。現状は戦国期の土塁と堀の遺構を残している。香取神社も向石毛に鎮座し平良将が下総国一宮を分祀したといわれ、将門と石毛政幹をも合祀している。供養板碑は町内蔵持(三基)と新石下(西福寺境内)にある(一基)が、いずれももとは篠山の神子埋(みこのめ)に建てられていた。建長五年(一二五三)、同六年(一二五四)の記年銘を有し、北条時頼の将門供養譚を伝えているが、刻字形態等からは追刻の可能性も高い。桑原神社は町内国生にあり、下総国内延喜式内社の一つに相当するという。馬場は町内馬場にある大結牧付属の常羽御厩の調練場とされ、天満宮は飯沼七天神の一つといわれる。そして、国生の伝下総国庁跡は、まさに下総国国府跡の地といわれる。国生(こっしょう)は国庁の訛ったものとされ、平良将の主導で北下総開発の拠点になったとの説もある。かかるいわくつきの地であることと、それ以上にその地形の特殊性から、町史編纂室では一九八六年七~八月にかけ国生地内本屋敷遺跡(いわゆる国庁跡)を部分的に発掘した。その成果として、古墳時代以降の住居跡、土坑、溝(出土遺物なし)、遺物(古墳時代から平安時代<八~九世紀中葉に集中>の土師器、須恵器)が確認された。また同時に縄文、弥生、古墳時代の土器も伴出し、この台地上での人々の居住の永続性も知られる。しかるに、将門の乱発生時の一〇世紀前半の遺物は出土せず、発掘成果を以って将門存世時の下総国府跡とはいえない状況である。「ただ、大溝が一〇世紀初頭であるとすれば、何らかの施設の外周溝とも考えられる。また「介」とみられる墨書土器や、朱書の存在は、官衙的な集落の存在も考えられよう」との所見(石下町史資料第1集『国生本屋敷遺跡発掘調査報告書』一九八七年三月)は今後の調査への期待を示すものである。本遺構の解説は前章第二節に詳しい。
 

Ⅵ-9図 桑原神社(石下町国生)

 最後に興味深い将門伝承の現状報告を紹介してみたい。一九八五年度の武蔵大学日本民俗史演習が、町内小保川・崎房両地区の民俗調査に当てられ、宮本袈裟雄教授(町史編纂専門委員)の指導で内容豊かな報告書がまとめられた(武蔵大学日本民俗史演習調査報告書Ⅳ『石下町小保川・崎房の生活と伝承』一九八六年十二月)。
 本報告のⅣ-10が「平将門伝説と将門踊り」である。
 
  (1) 平将門伝説の概況
    小保川・崎房地区での伝説は皆無に等しい。しかし一九七五年の大河ドラマが、将門ブームを高揚さ
   せたようである。
  (2) 平将門伝説とその伝承状態
    <小保川地区>
    将門伝説なし(一般農家四戸の聞き取り)
    <新石下地区>
    桔梗の花の柄はタブー視する。
    <向石下地区―法輪寺伝説>
    ①東京首塚譚
    ②国王神社将門木像譚
    ③桔梗の花の柄のタブー視譚
    ④将門家臣による仏像の顔削取譚
    ⑤岩井市民成田不参詣譚
     * いずれも法輪寺とは無関係
    <石下町役場>
    ①蔵持「きっかぶ祭り」譚
    ②仁江戸・守谷の桔梗タブー視譚
    ③岩井のきうり輪切り不食譚
    ④将門影武者譚
  (3) 将門踊り
    「のろばか踊り」(第二次大戦前)→「法然(豊年)踊り」→「石下まつり」→「将門踊り」(一九七五
    年以降)へと盆踊りが変遷した。ちなみに「のろばか踊り」の歌詞に将門なる文言はみられない(「将
    門踊り」の歌詞に初見)。
 

Ⅵ-10図 将門祭り(石下町)

 以上の総括として、本章第二節にも述べた如く、平将門は決して、たやすくわれわれの身近な存在ではない、との印象をもたざるを得ないのである。しかし、伝説・伝承が全く無意味と言うのでもない。夢と反省の所産こそ伝説であり、伝承であり、時には大いに明日を生き抜く原動力なのである。将門の里に将門を不在ならしめてはいけない。この努力の成果こそ、第二節で述べた「将門の実像」の延長線上にあることを望むばかりである。