古代の東北地方に置かれた鎮守府の長官を鎮守府将軍といったが、この将軍に任ぜられた平将門の父良将(良持)は、その本拠を下総国に定めた。下総国といっても、墾田開発を進めて土地の私有化をはかれる土地は、一〇世紀初めの段階では、ごく限られた地域であったと推察できる。というのも、香取郡には下総国一宮香取神宮があった。同神宮は藤原氏の氏神となって春日神社に勧請され、のち大社となって、香取郡を神郡とした。また、千葉郡は海浜に面し、埴生・結城両郡は郡域が狭く、海上(うなかみ)・匝瑳(そうさ)・葛飾の三郡は早くから開墾されていた。さらに、高津・大結・長洲などの官牧が多く置かれていたのが実状であった。こうした下総国内にあって、豊田・猿島・相馬の三郡には、鬼怒川・小貝川・利根川などの氾濫原が広がっており、良将はこれらの沼沢地や湿地帯に注目したと思われる。
良将の死後、子の将門と叔父良兼との遺領をめぐる一族の私闘については、前章で述べた通りである。そして、将門を打ち破った従兄弟の平貞盛らの子孫が、常陸平氏と呼ばれる多くの武士団を発生させたのである。
Ⅰ-1図 常陸平氏系図