一二世紀初頭の常陸国南部や下総国北部の一部地域は、平貞盛の曾孫の重幹(繁幹)の四人の子の致幹(むねもと)・清幹・政幹・重家たちによって支配された。まず致幹は、筑波山西麓から南麓にかけた多気・水守などを根拠地として、筑波・茨城・真壁・信太の諸郡などに、清幹は吉田郡を中心に、久慈川以南から鹿島・行方両郡などの常陸国東部一帯に、政幹は下総国の石毛を中心に、鬼怒川西岸に及ぶ豊田郡に、重家は伊勢神宮領の小栗保に、それぞれ支配力を強めていった。
さて、政幹は多気重幹の三子で、「豊田四郎ト称シ、又石毛荒四郎ト称ス」とみえることから(『新編常陸国誌』)、開発領主として豊田郡内の鬼怒川・小貝川の氾濫原を開拓し、次第に在地支配を強めていったものと思われる。また政幹は、彼の女子を忠常の子孫の下総権介常重(経繁)のもとに嫁がせたが、これは開発を進めるにあたって、宿敵下総平氏との関係修復をはかる必要が生じたためとみられる。
その後、一二世紀後半には、政幹の子幹重あるいは孫とみられる頼幹(『源平闘諍録』)は、豊田氏の所領を蓮華王院に寄進して松岡荘を立荘した(『茨城県史中世編』)。その際、頼幹は同荘の下司となったとみられ、その基盤を確実なものとした。