松岡荘に関するその他の史料として、鎌倉幕府の事蹟を記した『吾妻鏡』にもみえる。文治二年(一一八六)三月十二日条に、
按察使家領
豊田庄号二松岡庄一
と記され、当時の豊田氏の所領は松岡荘といわれ、陸奥出羽按察使藤原朝方の家領であったことがわかる。
建永元年(一二〇六)十二月の「大懴院条々起請事」には、
一、松岡庄下総国
国絹五十疋 綿二百両
とみえる(『門葉記(二)』)。この文書には下総国の松岡荘のほかに、讃岐国の志度、甲斐国の加々美、和泉国の淡輪など三か荘が記されており、これらの四か荘は、天台座主の慈円が西園寺通季の女子で、藤原経定室より相伝した所領であった。そしてこの松岡荘の所当は、国絹五〇疋・綿二〇〇両であったのである。
また、天福二年(一二三四)八月の「慈源所領注文写」には、
下総国
松岡荘
所当国絹七十疋 綿二百両
とみえる(『華頂要略五十五』)。このことから、松岡荘の所当は、建永元年にくらべて、国絹が二〇疋増加されたのである。ここに松岡荘の領家職は、藤原朝方から西園寺通季の女子、慈円、慈源へと相伝されたと推察できる。
また、寛元四年(一二四六)十二月二十九日条の『吾妻鏡』には、
下総国松岡庄田(田下カ)・久安両郷所務条々内
とみえ、田下・久安郷の文暦元年(一二三四)分の年貢物に関して、松岡荘の預所の昇蓮と結城朝光との間で相論となった。預所の昇蓮としては、松岡荘内の田下・久安郷は結城朝光が文暦元年に給与されたのであるから、その年の年貢物を朝光が弁済すべきであると申訴した。これに対して朝光は、給与されたのは同年十二月十六日で、その年の年貢は徴収しておらず、弁済できない旨を述べて対立した。結局、両郷の本地頭豊田忠幹に弁済が命じられて、この相論は一段落したのであるが、この文書を通じて、豊田氏所領の一部ではあるが田下・久安両郷に、結城氏の影響力が及んできたことが窺える。
さらに、年月日未詳の「香取社遷宮用途注進状」に
一、依宣旨支配作料国中庄々并済否事
(中略)
(勅免了)豊田庄二百石
(勅免了)同加納飯沼百石 (後略)
とみえる(『香取社大禰宜家文書』)。このことから、豊田荘の作料二〇〇石と同加納飯沼一〇〇石との作料が勅免となっている。この文書の年月日が未詳なので確かなことはいえないが、松岡荘の領家職を西園寺通季の女子が、所持していた時期があったことから推察してみよう。通季の曾孫公経は、頼朝の姪を妻とし、承久の乱後、幕府の支援を受けて太政大臣に進み、関東申次として朝廷・幕府間の連絡役をつとめて権勢を振った人物であったが、同女子はこの公経と同家であり、小作料が勅免になったことと無関係ではないように思われる。あるいは天台座主慈円―慈源という中世仏教界の中心に位置する人物を、荘園領主(領家)としていたことと関係するともみられる(『関城町史史料編Ⅲ』)。
ただここで注目しなければならない点は、律令制下の豊田郡のすべての郡域が、豊田荘=松岡荘として立荘されたかどうかである。『関城町史』は豊田郡と松岡荘に関して、大方郷から考察を加え、豊田郡西半のうち「大方郷は松岡荘が立荘される頃、すでに大方政家の所領となっていた可能性がきわめて強く、少なくとも大方郷までを含む豊田郡全体が松岡荘になったという理解は成立しない」とし、律令制下の豊田郡から大方郷を除いて松岡荘(=豊田荘)・同加納飯沼が分出したとみており、豊田郡のすべてが松岡荘=豊田荘として立荘されたとした『茨城県史中世編』に異論を唱えている。確かに、松岡荘・豊田荘などの荘園名となった「松岡」・「豊田」の地名は、現在の下妻市二本紀字松岡と石下町豊田・本豊田に伝承され、また、前掲の豊田氏の祖政幹が「石毛荒四郎」と称した「石毛」は、現在の町名のほかに石下町本石下・新石下などに伝承されている。このことから松岡荘=豊田荘の荘域は、小貝川と鬼怒川との氾濫原のうち、比較的墾田化しやすいところから開かれたと考えられ小貝川西岸から鬼怒川東岸にかけてが、この荘園の中心であったとみられる。だが、鬼怒川西岸域から飯沼に及ぶ地域にまで松岡荘=豊田荘が広がっていたかどうかは、今後の研究に待たなければならない。
Ⅰ-2図 小貝,鬼怒川間の水田
一方、常陸平氏の統治に対して、松岡荘=豊田荘・相馬御厨に接する下河辺荘、幸島郡、結城郡には、早くから秀郷流藤原氏が進出していた。また、鳥羽院政期以降(一二世紀後半)の常陸・北下総の公領・荘園の分布状況をみると、大部分が公領であったが、国守が常陸平氏や秀郷流藤原氏などの豪族的領主と結んで、八条院や蓮華王院などの天皇家へ寄進させて天皇家領とする寄進地系荘園も、広域化していたのである。そして、寄進地系荘園における権門と下司との関係は、平氏政権に移行しても、大きな変化をみせなかった。源頼朝が武家政権を樹立するに至って、東国の荘園の多くは、地頭請所となったとみられる。