治承四年(一一八〇)五月、後白河法皇の皇子以仁王(もちひとおう)と摂津源氏の源頼政は、平清盛の専制に対する地方武士や都の貴族・大寺院の中にも不満を抱く人々が現われてきたのを察知するや否や、平氏打倒の兵を挙げた。この動きをみた各地の源氏の武士団の中でも、伊豆に配流されていた源頼朝は同八月、妻北条政子の父の時政をはじめ、東国の武士団を動員して、伊豆の目代の山木兼隆を攻めた。
ところが、石橋山の戦で平氏方の大庭景親と戦って敗れ、船で真名鶴から安房に渡って、相模の三浦氏の軍勢との合流に成功した。その後、下総の千葉常胤や上総広常らの軍勢が続々と参入した。そして頼朝が安房から鎌倉に入るまでに、常陸・下野・上野・甲斐源氏などの軍勢が加わり、勢いをかって伊豆の国衙の目代を討ち敗った。そして千葉・上総・三浦・小山諸氏などの豪族たちの他に、下総の下河辺行平らが頼朝の支配下に入ったということは、事実上、平氏政権の影響力を排除し、東国の国衙機構を彼が掌握したといえる。こうして頼朝は、東国武士を統轄していった。
頼朝を中心とした東国の動向に対して、平氏は維盛を大将軍として、大軍を下向させた。これと呼応するかのように、常陸・北下総の常陸平氏一族は、平氏と密接な関係を保持していた常陸源氏佐竹隆義の弟忠義を大将軍として、反頼朝の軍勢を結集させ、下野に発向していた(『源平闘諍録』)。常陸平氏一族の中でこれに加わったのは、豊田太郎頼幹をはじめ、下妻四郎広幹、小栗十郎重成、東条五郎貞幹、鹿島権守成幹らなどの豪族的領主であった。