頼朝の東国平定

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さて、源氏と平氏の東国での対決は、同年十月の富士川の合戦であるが、頼朝方の勝利に帰した。頼朝は勢いに乗じて、敗走する平氏の軍勢を追って上洛しようとしたが、頼朝の家人の千葉常胤・三浦義澄・上総広常らは、常陸に頼朝に敵対する佐竹氏の存在することを説いて、上洛を思い止まらせた。頼朝は相模の国府に入って、前に記した家人らに新恩を与えてから、常陸源氏佐竹義政・秀義追討のため常陸に下向し、常陸国府に入った。頼朝は上総広常に命じて、まず義政を南郡の園部川にかかる大矢橋で殺害させた。また秀義は久慈東郡の金砂山城(金砂郷村)に引き籠ったが、頼朝勢は苦労のあげく佐竹義季(秀義の叔父)の内通もあって、これを攻略することができた。合戦の後、常陸北半の奥七郡に大きな勢力を及ぼしていた佐竹氏勢力は、内応の功のあった義季領を除いて、頼朝によって没収された。
 

Ⅰ-3図 金砂山城(金砂郷村教育委員会提供)

 その他の常陸での動きは、頼朝の同族の志田義広の反抗を挙げることができる。義広は信太荘・信太東条に拠点をおいていたが、寿永二年(一一八三)、下妻広幹や関郡の関政平らを味方に挙兵し、頼朝に対した。義広は鹿島社の所領の一部を横領しようとしたが、下河辺行平・小栗重成・八田知家・小山朝政・結城朝光らによって攻められ、義広は信濃の木曾義仲を頼って敗走した。
 こうして頼朝は、東国の平定を押し進めつつ、平氏政権の打倒をはかるため、弟範頼・義経の軍勢を西上させた。文治元年(一一八五)四月、ついに平氏を壇の浦で滅ぼした。ここに頼朝に就いて積極的に動いた、小栗重成を除いた常陸平氏一族の多くは、各々その対応を余儀無くされた。治承四年に頼朝討伐のために蜂起した豊田頼幹らも、富士川の合戦で平氏勢が敗走してからは、主だった動きもみせずに静観していたとみられる。
 

Ⅰ-4図 男衾三郎絵詞(東京国立博物館特別展「絵巻」1974より)