Ⅰ-3図 金砂山城(金砂郷村教育委員会提供)
その他の常陸での動きは、頼朝の同族の志田義広の反抗を挙げることができる。義広は信太荘・信太東条に拠点をおいていたが、寿永二年(一一八三)、下妻広幹や関郡の関政平らを味方に挙兵し、頼朝に対した。義広は鹿島社の所領の一部を横領しようとしたが、下河辺行平・小栗重成・八田知家・小山朝政・結城朝光らによって攻められ、義広は信濃の木曾義仲を頼って敗走した。
こうして頼朝は、東国の平定を押し進めつつ、平氏政権の打倒をはかるため、弟範頼・義経の軍勢を西上させた。文治元年(一一八五)四月、ついに平氏を壇の浦で滅ぼした。ここに頼朝に就いて積極的に動いた、小栗重成を除いた常陸平氏一族の多くは、各々その対応を余儀無くされた。治承四年に頼朝討伐のために蜂起した豊田頼幹らも、富士川の合戦で平氏勢が敗走してからは、主だった動きもみせずに静観していたとみられる。
Ⅰ-4図 男衾三郎絵詞(東京国立博物館特別展「絵巻」1974より)