文治元年(一一八五)に平氏が滅亡すると、京都の後白河法皇は、武士勢力が伸びるのを恐れて、源頼朝・義経兄弟を対決するよう画策した。法皇は義経に頼朝の追討を命じたのである。頼朝は軍勢を上京させ、国ごとに守護・地頭を任命する権利と、反別五升の兵粮米を徴収する権利とを法皇に迫り、これを獲得することに成功した。守護は東国出身の有力御家人が国ごとに一人任命され、平時には治安の維持と警察権の行使にあたり、戦時には国内の武士を統率した。地頭は東国御家人が任命され、全国の荘園と公領におかれた。そして年貢の徴収・納入、現地の管理、治安の維持などを主な任務とした。
頼朝はこれ以前の治承四年(一一八〇)には、御家人を組織し統制する侍所を置き、また元暦元年(一一八四)には、一般政務を司る公文所(建久二年政所となる)、裁判事務を担当する問注所をそれぞれ置いて、中央機関の整備をはかった。
そして後白河法皇の死後の建久三年(一一九二)に、頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、武家政権としての鎌倉幕府はここに成立をみた。しかし、畿内や西国では、朝廷や荘園領主の力は、以前として強固であったため、承久の乱までは幕府の力の及んだ地域は、東国とその周辺であったとみてよい。ここに鎌倉時代初期は、京都(公家の権力の存在)と鎌倉(幕府の成立)の二重政権が存在し、その頂点に荘園領主と在地領主が位置したのである。そして荘園制の中に、両者を両立させうる歴史的条件が存在していたことも否定できないところである。
一方、頼朝は文治二年(一一八六)三月、「関東御知行国」(関東分国あるいは関東御分国ともいい、鎌倉時代には源頼朝の知行国をいう。『吾妻鏡』の文治二年の条には、伊豆・相模・上総・下総・信濃・越後・武蔵・駿河・豊後など九か国が記されている)のうち、下総・信濃・越後三か国における天皇家・摂関家・寺社の荘園のうち、「乃貢未済」のところの年貢進納を保証している。また、『吾妻鏡』の同四年三月十七日の条には、安楽寿院領あるいは八条院御領となっている常陸国村田・田中・下村(下妻か)の三荘に関しても、年貢の完済を命ずる頼朝の請文が記されている。
東国の荘園のほとんどは、地頭が荘園領主に対し、一定額の年貢を請負う地頭請所となっていたとみてよく、年貢の納入等で、両者間の紛争が絶えなかった。前の二つの史料は、その一端をのぞかせている。常陸平氏や秀郷流藤原氏などの豪族的領主の多くは、地頭請となり、その職権を利用して勢力を伸ばすことができた。