和田合戦と豊田幹重

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東国に武家政権の基盤をつくった頼朝の死後、二代頼家、三代実朝の時代は、幕府の主導権をめぐる対立が続いた。こうした中で、頼朝の妻政子の父北条時政は、自ら政所の長官となって勢力を伸ばし、次第に幕府の実権を掌握していった。
 やがて時政の子義時は、侍所の長官和田義盛を挑発し続けた。建保元年(一二一三)五月、ついに義盛は一族や与力とともに義時を攻めたが、敗死した。これを和田合戦という。義盛方には豊田平太幹重、大方政直・遠政、宇佐美平太郎左衛門・平左衛門などがついた。合戦後、豊田・大方両氏の所領は、それぞれの一族が受け継ぐことができたとみられる。ところが、宇佐美氏の所領佐都東郡は没収され、伊賀光季に恩賞として給与された。こうして義時は、政所と侍所の長官を兼務する実権を握ることができたのである。この合戦後、幕府の実権は次第に、将軍を補佐する執権によって掌握されるようになり、北条氏一族がこれを世襲した。