承久の乱と豊田平太

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義時は三代将軍実朝の死後、後鳥羽上皇の皇子を将軍にいただこうとしたが、交渉は不調に帰した。やむなく幕府は、頼朝の遠縁にあたる藤原道家の子の頼経を将軍に迎えた。
 一方、京都の朝廷では後鳥羽上皇の院政が行なわれていたが、西面の武士をおいて軍事力の増強をはかったり、畿内・西国の武士や大寺院の僧兵、反北条方の東国武士の一部などを味方に入れて、承久三年(一二二一)五月、義時追討のための兵をあげた。
 これに対し、東国の武士の大多数は北条氏のもとに結集し、一九万騎が京をめざした。豊田平太は、同年五月の宇治橋での合戦では、多くの常陸・北下総の武士とともに、北条義時の子泰時の旗下にあって戦い、疵を負った。このことから豊田氏は、和田合戦の後、北条氏方にあったことが明らかとなる。
 幕府軍は一か月の戦いの後、勝利を摑んだ。この動乱を承久の乱というが、乱後、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇の島流しと、仲恭天皇の廃位が行なわれ、畿内をはじめ西国の公領・荘園にも幕府の力が急速に波及していった。こうして朝廷と幕府との二重政権の様相は大きく変わり、北条氏を中心とした幕府が優位に立った。北条義時の子の泰時は、執権政治の隆盛をもたらし、常陸・北下総も次第にその影響下に入ったものとみられる。