平安末期から鎌倉期にかけて常陸国に力を持った武士は常陸国の国衙機構を掌握していた常陸大掾氏と文治元年(一一八五)に常陸守護に任命された八田氏であった。常陸大掾氏はすでに第一章で述べたように、那珂・吉田・行方・鹿島・結城・真壁の各郡に一族が分流していた。また、八田知家の祖先は公家出身の天台宗の僧侶であったといわれているが、彼の子息たちが石下・茂木・穴戸・田中・高野などに居住し、筑波山や加波山の山麓を拠点として筑波郡の北半から結城郡の西北半、新治郡の西部に一族が分流していた。常陸大掾氏・八田氏の両氏一族が天台宗に保護を加えたので、平安から鎌倉時代にかけて、これらの地域で天台宗は強力な教線を張ることができた(同上)。水戸吉田の薬王院、行方郡玉造の西蓮寺、村松の虚空蔵堂、照沼の如意輪寺などが大掾氏の保護を受けた天台宗寺院であった。また、この地域の天台宗は教相・事相と称される教義や修法の両面で中世を通じて、伝統を守り続けてきたので、比叡山が織田信長に焼打された時には、その教義や修法等が天台宗にとって貴重なものとなり、田舎天台として注目された。これらの田舎天台の談所として知られた寺院としては常陸東条荘小野の逢善寺・岩瀬郡西小塙の月山寺・真壁郡黒子の千妙寺などがあげられる。
Ⅱ-1図 千妙寺
石下地域の近くでの天台宗寺院には黒子(現関城町)の千妙寺がある。同寺は江戸時代には石下町内の法輪寺(向石下)、歓喜寺(古間木)、善福寺(古間木)の本寺である安楽寺の本寺になっている寺である。千妙寺の前身は承和寺といい、天台座主第三代の慈覚大師円仁により筑波山麓の赤浜(真壁郡明野町上野)に建立されたことにはじまるといわれる。貞観元年(八五九)に大恩寺と改称し、その後、観応二年(一三五一)、亮守は荒廃していた大恩寺を黒子に移して中興し、千妙寺と改称したという(「千妙寺略縁起」、『関城町史』史料編I)。
関東の真言宗は天台宗の展開に比べると、やや遅れるが、平安末から鎌倉期になると建立されたり、他宗を改宗したりする真言宗寺院が出てくる。岩谷寺(現笠間市)、正宗寺(現常陸太田市)の前身勝楽寺などがそうであり、鹿島神宮周辺の神宮寺・護国院・根本寺が当初は三論宗であったようであるが、のちに真言化を遂げるようである。また、太田の佐竹寺は古くは律寺であったが、その後天台宗に改められ、文永六年(一二六九)、佐竹長義によって再興され、真言宗寺院となっている。佐竹氏は寛喜年間(一二二九~三一)の頃までは天台宗との関係が深かったが、以降は真言宗の保護者となっていった。西大寺系律宗(真言律宗)の忍性は小田氏祖の八田知家の菩提寺として成立したといわれる筑波郡の三村寺に入り、筑波・信太・茨城・行方・鹿島の各郡で天台宗寺院を真言律宗の寺院にするなどの活動を行なっている。幕府の御家人であり常陸守護であった小田氏の真言律宗の保護は同宗の展開に有利であったが、北条氏の滅亡、南北朝期の動乱により、真言律は衰退していき、それ以降は、真言密教の寺院が展開していくことになる。宝薗寺(報恩寺・法音寺、新治郡八郷町小幡)を中心に普門寺(現つくば市)、大聖寺(現土浦市)、法泉寺(同上)、南円寺(現出島村)の四か寺が、いわゆる「小田四か寺」として常陸国南西部に勢力を持つことになった。文殊院(下妻市尻手)や楽法寺(真壁郡大和村本木)も教義や修法の相承では、「小田四か寺」の系統(実勝方)に属する真言宗寺院であった(坂本正仁「中世関東における真言宗教団の展開」、『日本仏教史学』二〇)。江戸期には神郡の普門寺は石下町内の水生寺(鴻野山)や光明院(小保川)の本寺(現千代川村鎌庭の勝善院)の本寺となった寺院であり、文殊院は石下町内の西浄坊(左平太新田)の本寺となった寺院である。これまで天台・真言両宗の展開を中心にみてきたが、鎌倉期には浄土真宗の開祖として知られる親鸞の活動もみられた。